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甲子夜話
十六
諺に、鼻の先のことも知らぬと雲へるが予、〈◯松浦清〉が浅草邸の西隣は、弘前侯〈津軽〉の中邸なり、其邸にて七月十五日、十六日、十七日の夜は踊おなす、毎年この如し、これ其領国のならはしと雲り、士分より下賤まで皆踊ることなり、其形何にと定りたることも無く、思々の衣類お著し、游女又は半した女、又は老人、又は乞児、又は妊婦などの、すべておかしき容体して鳴ものおならし、囃して踊る、謡ふ章も定りなく、譬へば婆々は腰は曲つたそれ〳〵と雲やうの詞にて、拍子お打て踊るとぞ、侯よりも時には揃衣装など賜ふこともあり、或は四斗樽の酒お其まヽ下されて、諸人酔に乗じて踊るよし、多くは衣服に轡お紋につけ、木履おはきて踊ると雲、これ弘前侯の手廻小頭熊谷文八と雲ふが話なりと聞ぬ、