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飛州志
七踏歌
吉左右踊(きつそうおどり/○○○○) 本土高山国府に於て、毎歳七月下民の小児男女ともに遊びとする踊也、今の俗きつそ踊、或はきそ踊とも雲へり、皆吉左右踊の誤なり、木曾踊(きそおどり/○○○)は信州木曾にあり、隣国なれば其名混ぜしものならん、 按ずるに、是文禄年中、豊臣家朝鮮征治の時旧領主金森法印父子、肥前唐津に在陳せり、然るに朝鮮に至る処の、日本の諸将、速に勝軍の事、唐津より此州に告来れり、〈于時文禄元年壬辰三月、朝鮮国の〓東季子お禽にせり、〉仍て下民是お祝して、悉く高山の城下に群参し、踊歌(とうか)せしお濫觴とす、俗に吉左右の告来ると雲ふお以て名とするもの也、自是毎歳七月七日は、高山の民同郷の国分寺の境内に集り踊れり、同十五日、十六日は、高山の国府に於て踊おいたす、古来用ゆる処の章句お載す、 空たつ鳥が日本へ行ば、言伝しよもの文副て、〈按ずるに、朝鮮在陳の意お雲ふか、〉 天に照る月は十五夜が盛り、我が君さまはいつもさかり、〈按ずるに、豊臣家の事お雲ふにや、〉 御寺さまの御門に、鶴が巣おかけた鶴千年と、〈按ずるに、本願寺宗照蓮寺高山にあり、其時の住持は金森氏の婿也、是お雲ふか、〉 思いも寄らぬ、たくらだに出よてもろたよ、知行お五千五万石、〈未解〉 小豆餅(あづきもち)に砂糖つけて、ふくさ(覆紗)につヽ(包)で、ふ(封)おつけてやりたや、大野主馬殿(めどの)へ、〈按ずるに、大野主馬は豊臣家の長臣たり、〉 こくぶじ(国分寺)で踊れば、おのけ(御能化)めがしか(呵)る、おのけめがさいはちお、〈按ずるに、又お下俗さいはちと雲ふとなり、〉 しんとろ〳〵と、眠る眼(め)もいとし、とりおけおごけ、〈未解、おごけは苧桶なるべし、〉今宵も鹿子、あすの夜もかのこ、めしかえてござれ、〈按ずるに、鹿子目結、染色の名なり、〉