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花洛名所図会
四東山
大文字噺〈熊谷直恭、通称久右衛門、〉雲、毎年七月十六日の黄昏に、洛東浄土寺村如意岳の山上に、灯すなる大文字は、弘法大師の作り給ふと雲伝へたり、いかにも其運筆字勢の妙絶たる類ひなし、予彼村に往て、親しく村長に問に、第一の画、長三十八間、第二八十五間、第三六拾間とぞ、火の数七拾五、其中央の所お、かなわといふ、さて山に登り、薪お積めるお見しに、生松の小割お以て、〓此の如く積立、枯松葉お差添て、火勢お助る、其体さながら、護摩炉に用る、壇木助刀に異ならず、思へば山上に用ゆる、柴炉護摩の根原たる、霊地なる事丙然なり、またかの七十五の火場、皆穴にあらず、隻平地なれども、絶て草木お生ぜず、故に焚時諸虫殺生の患なし、又冬日の雪朝には、雪の大文字(○○○○○)お顕はして、人目お驚歎せしむ、これら大師秘密の加持力お以て、山祇に誓ひ、後葉まで結界なし給ふならめ、されば忌服ある人お甚く憚るとぞ、もし人家に誤て用ふれば、忽ち崇りお受るなど、千歳の今に顕然たるは、神秘の密法お、下民に示し給ふならん、かくて諸病者、此大文字お拝して、祈願するに、霊験有て平癒お得し人多し、想ふに、七月十六日夜は、亡霊の送り火とて、諸国に炉火お奠す、此義、経説にも所見なく、また純素其由縁お知らず、また正月元旦は、年月日時皆陽数なり、当夜は則其裏なり、黒年黒月黒日黒刻にして、悉く陰数なり、故に増益の柴灯護摩お焚て、諸悪気諸亡霊お退散せしめて、天下太平国土安穏の祈禱おなし置給ふことヽ思へり此夜また北山に船形お焚火は、則異船焼打の表示にして、蒙古異賊お調伏の護摩炉たる事跡ならん、さて或書に曰、延暦年中より、例歳三月、鹿谷霊鑑寺の峯に北辰お祭り、伐木して山川の神々に捧ぐ、これお御灯と雲、こは異邦尭俊の例お摸したるとなり御灯遥拝のことは、書経俊典に見えたれども、彼国には古風亡びて、皇国には今も御遥拝の例ある事にあらずや、斯て思へば、村人かなわといひ伝ふる所は、此御炉に用ひし鉄輪(かなわ)の旧地なるべく、其は往昔弘仁中、天下飢饉して、疫病流行せし事あり、大師其頃より、此鉄輪お中央に置て、上下左右に七十五の火お添て、大の文字お作り改め、月も七月十六夜になし給ふこと、天地陰陽の妙数お取て、玉体安穏、宝祚悠久お祈らせ給ふ、其お村人の勤め来しなるべし、其古へは相当の下行おも賜はりつれども、数百年来世の乱れ打続きて、其事絶はてしとぞ、予火気の早く衰へる事お歎き、年々薪の助力おなせり、同志の人は、聊にても此助力おこそあらまほしけれ、因みに雲、同じ夕べ松け崎の山に灯火する妙法の二字、此は日像上人、大文字お倣ひて、作り給ふこと必せり、さるお大文字は、足利将軍家の時に始れりといふ説は、金閣寺山なる、左大字(○○○)の事なり、其お籬島が都名所図会に、銀閣寺の所に出せるは、甚だ誤れり、此如意岳の大文字は、弘法大師の御作なることは、其筆法点画の微妙なる、何者かまねぶべけん、