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公事根源
八月
八朔風俗 この事はさらに本説なし、又正礼にもあらず、堅固世俗之風儀なり、或仮名記に、建長の比より此事有、はじめは田のみとて、よねお打敷かはらけなどに入て、人のもとへつかはしけるとかや、また円明寺太閤〈◯藤原実経〉の文永の記に、此七八年よりこのかた、殊に天下に流布せるよしのせられたり、誠に建長のころよりの事成べきか、或説には、後嵯峨院いまだ東宮にて、外戚通方卿の亭に御座ありし時、御閑素おなぐさめ申さんとて、近習の男女密々奉りけるに、其後ふしぎに聖運おひらかせ給しかば、御嘉瑞なりとて、内々御さたありけるなども申伝へたり、かれこれいづれもたしかなる事なし、また真実はじまりたる年紀も分明ならず、たとへば後嵯峨院の御治世の時分よりの事成べきにや、然るに今年中行事の中にしるしくはふる事詮なしといへども、頃殊に世にさかりにもてあそぶ事なれば、筆の次にしるし侍るなり、猶々まことしき大やけ事にては、ゆめ〳〵あるまじきなり、