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高貴八朔考
一八朔の駒牽といふは、古しへ国々の御牧より貢の駒お献じ、左右馬寮にて其事お掌れる事、延喜式、江家次第、其余の旧記に詳なり、〈◯中略〉当家の世となり、慶長八年将軍宣下ありて、その年八朔に、太刀御馬お進献し給ひし事、御湯殿上日記に見ゆ、それより以来は、世々太刀馬お進上せらる、〈室町の代、八朔進献の太刀は、禁裏の御物お借り用ひ、次の日太刀代として鵝目お納む、当家に至りても、其例にしたがひ、太刀代は旧によりて別進らせらる、進献の馬何毛にても月毛と目録にしるす事なり、都て白お用ゆるは当季の色なれば也、〉御使は二条在番の大番頭也、正徳三年までは長袴お著し参内せしが、同じき四年より衣冠にて参る事となれり、これ将軍にて馬寮御監お兼させられしゆへとぞ、天和二年よりして、関東よりはる〴〵牽のぼせらるヽは、古へ武蔵国小野秩父平野等の牧より貢献ありし遺風にかなへり、禁裏にも御返しとして橘の折枝に薫物おいれ、大高檀紙銚子提子等お贈らせらる、これ室町以来の旧例にて、天盃お賜はるの意なるよし、