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嬉遊笑覧
十二草木
菊のきせ綿も、香おめづるより起れり〈◯中略〉散木集、九月九日菊してかほなでよと人の申ければ、ちるごとくしぼめるかほは花なればなづとも菊のしるしあらめや、〈◯中略〉新撰六帖、信実、垣根なる菊のきせ綿けさみればまだき盛の花咲にけり、時過てたれかは今もきせわたのそれかと匂ふ露のしらぎく、〈◯中略〉隣女晤言に、渓雲問答に、通茂公の歌お出して、咲きくはまたむら〳〵の籬おも花につくろふけふのきせ綿とあそばせるは、花とみせんとてのことにやといへり、これは新撰六帖に信実〈垣ねなるきくのきせ綿雲々〉とあるより、花の咲ざる程、綿お花とみせむとてのことのやうに思ひ給ふなるべし、但し通茂公は、定基卿の尊父にて、有職の人におはしませば、猶古書などに見したヽめ給ふ事あるべし、今按ずるに、信実の歌も、花と見せむとて綿お著るにあらず、香お移す為なれば、半開の花にもきするなるべし、通茂公の歌も亦しかなり、何の不審かあらむ、世諺問答に、霜おさくる為ならむとあるはいかヾ、もし霜およけんとならば、花のうへのみにてはかなふまじ、又古人老おわかゆる撫ものと、もてあつかひしも戯れごとなり、これ風俗通に、南陽郡酈県有甘谷、谷水甘美、雲其山上有大菊落水、従山下流、得其滋液、谷中有三千余家、不復穿井、悉飲此水、上寿百二三十、其中年亦七八十、ゆえ長寿お得といひ、又巍文帝与鐘繇書に、九月九日、九為陽数、而日月並応、俗宜其名以為宜於長久、故以燕享高会雲々、屈平悲冉々之将老、思食秋菊之落英、輔体延年莫斯之貴、などあるによる事にて、重九お長久の義にとり、これらのわざもあるべけれど、散木集のごとく、菊花お用ひばよかるべきお、綿にうつさむは迂遠なるべし、これによりてきせ綿は、もと香おもてはやせしより起れりとぞ思はるヽ、後世染わたお用るは、唯華飾のみなり、又年の気候によりて、菊の花いまださかざる時などに、綿お置て花にかへ、此日の節物おととのふは後世の義なり、