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日本歳時記
六十月
初の亥日糕お製して食ふ事あり、おほやけにも上の亥の日、内蔵寮より御玄猪お奉る、あさがれいにてきこしめす、御玄猪は亥子餅の名なり、〈委き事は公事根源、節供記要略などにみへたり、公事なる故略之、〉又亥子の糕七種の粉お合て作る、七種の粉とは、大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖なりと、掌中暦に見えたり、かヽる事お下にうけて、此日民間にいたるまで糕お製してくらふ、此事いつの比よりはじまるとも見えず、延喜式にのせたれば、往古より有し事とみへたり、承安四年沙汰ありて、大外記頼重師尚など勘文おまいらす、それも本朝のおこりおば、たしかに申さず、みな本書本記おのせたり、しかるに歌林四季物語には、但馬の国よりはじめていのこのもちいたてまつりし事、国史に侍る、時代開化のすべらみことの御くらいしろしめして二とせの、此月の御事なりとかや、子夜行といふふみには、十月は亥の月にして、亥の用らるヽ事は、子お一年の月の数うみ、うるふには十三うみて、めでたくあさましきまで、いみじき物なればとて、この事おこなはるヽよし侍る、もろこしにてもひさしくなしつたへたりや、はかりがたしとしるせり、しかれども開化天皇の御宇に、亥の日の糕奉りし事、日本紀などには見えず、又榻鴫暁筆といへる書お見侍しに、景行天皇二十三年十月亥日、糕お奉りしよししるしぬれども、これ又ふるき文にも見えず、まいて国史などにもしるさヾれば、かれもこれもみな無稽の言なるべし、源氏物語に、子のこはいくつかまいらせんとあれば、亥の日の糕の残お、翌日もくふと見えたり、 按ずるに、月令広義に、五行書お引ていはく、十月亥日餅おくらへば、人おして病なからしむ、又錦繍万花谷にもかくしるせり、されども其故おしらずいぶかし、右にいへるごとく、豕の多く子おうむによりて、かれおうらやみ、婦人女子のたはふれになし来りし事なるべし、猶ことはりしれらん人に問べし、