[p.1349][p.1350]
後水尾院当時年中行事
上十月
いのこ、亥に当る日なり、あしたのほど御げんでうお供ず、御いきおかけらる、夫お人々の申出すにしたがひて給はる也、御所々々親王方、門跡方、比丘尼衆、大臣等、其外番衆、八幡別当、医師等にいたるまで、小たかだんしに包、小かくにすえ、水引にてゆひてとり出、内々の男衆、院の女中、御所々々の上臈、同乳母などの申出すは、椙原に包て出さる、杉原つヽみたるは、小かくにもすわらす也、畢竟或は賞玩の人、或は外様人には、たかだんしに包たるお給はるなり、つヽみの中にいる物は、初度は菊としのぶと、中度はもみぢとしのぶと、三度めはいちやうとしのぶとなり、いちやうの葉に、申出す人の名お書て、つヽみ紙にさしはさむなり、御げんでうのいろは、公卿たる迄は黒白品々、殿上人は赤、五位殿上人已下は白、児は赤、地下は白、花ぞくの人は三度一度も、二度に一度も赤は黒、白きは赤お給はる也、家お賞玩のゆえなり、女中は上臈のかぎりは黒、中臈は赤、下臈は白、儲君の親王の上臈おはじめ、御所々々の上臈は赤、其家にては黒かるべきことなれど、禁中にては中臈の准拠なればなり、又后はおはしまさぬときも、后の御料とてひらの御はんに、土器三つすえて、御げんでう三色おそなへて、御しやうじの内におく、ないしひとへぎぬきてもて参る、菊のわたのたぐひなり、丹波国野勢といふ所より、筥に入て献る物あり、則のせと名付て、夕方の御祝に供ず、衛士かちんお進上す、高くらてんそう也、夕方御いはひ常の御所にて参る、御座等例のごとし、先つく〳〵〈台にすう、台のてい両方に足あり、花足の類也、当時世俗に流布に足うちとかいふものなり、〉おもて参る、はいぜん御前にすう、すこし亥の方にむかはせ給ひてつかせ給、はいぜん御直衣のそでおおほふ、もとより御直衣はたヽみながら御座におく、つきおはらせ給ひて、御はしおとらせ給ひて、供御お少し参る、親王女御などあれば御相伴なり、次第にもて参る、親王は半尻著用なれば、はいぜんの人、袖おおほふに及ばず、女の御はいぜんの人、唐衣の袖おおほふ、女中と上臈中らふは、次第に御前にてつく、下らふから衣〈上らふは上臈の唐衣、中らふは中臈のなり、〉の袖おおほふ、次第につきおはりて番所へ御しものから衣お置て出さる、男の料とかや、唐衣はいかヾしたることにか、次に御げんでうお供ず、南にむかはせ給ふ、はいぜん手長の人、例のきぬおいだき持て著座、かけおびばかりおかく、下臈はひとへぎぬお著す、つく〳〵と同体台〈比台亥のこの外、目にふれざるもの也、〉二つにすえて供ず、白き土器五つに御げんでうお入て、台ひとつにすう、都合十也、御はしはとらるヽにも及ばず、はいぜんてながてつせずしてしりぞく、又西向に居直らせ給ふ、上臈、中らふ、下臈襠ばかりにて、まづ御盃、次に二献御まなお供ず、御さかづき常のごとくとほりて、又御さかづき参りて、三献〈のせ〉お供ず、三献目は天酌にて御とほし、例のごとくひと〴〵天酌のついで、初献に供たる御ひだりのかたにある、御げんでうおとらせ給ひて、しきいのうへにおかせ給ひて、御ゆびにてはじかせ給ふお給はるなり、御げんでうの事前にみえたり、たヾし四位殿上人の内、清花の族、大臣の子或は孫、両頭などは、二度の時も、三度の時も、一度は黒お給はるなり、五位殿上人も又同じ、これらは賞玩ゆえ也、亦しきじに補せらるヽ人は、器量お称せらるヽよし、又親王、女御、第一の公卿などは、はじかるヽ迄はなく、敷居のうへにおかるヽお、さしよりて給はるなり、いのこの御いはひは、両度三度共におなじ、いのこには女中の衣しやう、はいぜん、てながの外は、りんず、唐あやなどの小そでお、心次第に著用なり、