[p.1352][p.1353]
貞丈雑記
六飲食
一能勢餅の事、古京都将軍の御代、毎年八幡の善法寺より、十月亥の日ごとに、能勢餅お献上しける由、年中恒例記、殿中申次記等にみえたり、此餅今に絶ず禁裏へ献上する也、摂津の国能勢郡木代村は、大阪の天満と雲所より、七里北の方なり、其村に数代居住して、其名お門大夫と名のる者あり、毎年十月亥の子の餅お禁裏へ奉る、不浄お禁じて別火にて餅おつく也、赤小豆おつき交へたる餅也、幅四寸、長さ六寸五分、深さ二寸の筥へ入て餅の形お作るなり、上に栗お五つ五角において蓋おおほふ也、亥の日三つあれば、初の亥の日百筥、中の亥、終の亥の日は年により増減ありといへども、八九十におよびて百に及ばず、初の亥には門大夫自身に献ず、後の亥の日には、門大夫が親類五人の内宰領して献ず、京都迄伝馬お給る也、此由緒にて居屋敷、除地、諸役御免也、其初りは凡千年計にも及ぶといへり、古善法寺の寺領などにてありし故なるべし、〈当時は禁裏へ献じたる内お分て、関東の将軍家へも参らせらるヽとぞ、又米の価一石に付五十目わづかに及ばざれば、餅一筥のあたひ二匁五分づつ、一石に付五十目の時は、餅一筥のあたひ三匁づヽ、白銀お以て、禁裏より被下とぞ、八九十年以前、両年献上怠りし事有しに、主上御悩の事有しかば、又本のごとく献ずべきよし、仰付られて、今に絶ず献上するよし、摂津の国の事書たる書にみえたり、〉