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古今要覧稿
時令
節分 節分と追儺とは、後世同じき事のやうに心うれど、むかしは差別あり、追儺は十二月晦日のみにかぎりて、別日は其式行なはれざるなり、又中むかしより節分に大豆打事始まれり、此事の起りは、以赤丸五穀播灑之と〈後漢書〉みえ、呉越風俗、歳除互檠炒豆交納之と〈類書纂要〉みえ、歳暮夕四更、豆麻と家人の頭髪とお井中に入、井お呪勅すれば、其家竟年傷寒五温の鬼おさくるよし〈太平御覧引竜魚河図〉みえたり、これらによりて、皇国にても大豆打事始まれり、さはあれど時代たしかならず、応永の頃よりは、たしかに所見あれば、其以往よりありし事は明かなり、又門戸にひヽらぎの枝、なよしのかしらおさす事は、寛平延喜の御時既にありしと見えて、こヽのへの門のなよしのかしらひヽらぎと、〈土佐日記〉みえたるにてしられたり、中むかしよりは鯔おいはしにかへ用いたりしは、藤の為家卿の歌に、ひヽらぎにいはしおよみ合せ給へるによれば、是も六百年前よりの事なり、扠又此夜炒豆に頭髪と銭の三物おつヽみて、乞食の夜行の者におとしてとらする事は、宗長手記、大永六年のくだりに見えたれば、これも大永より以前に始まりしなり、