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古今要覧稿
時令
すヽはらひ〈煤払〉 すヽはらひの事は、中昔より慥に所見ありといへども、神代にすヽの事みえたり、いはゆる天の新巣の凝烟の八拳垂まで焼挙てと〈古事記〉みえ、ふせやたきすすしきほひてとも、葦火燎やのすヽたれどと〈万葉集〉みえたれば、古代よりすヽお払ひし事もありしなるべけれど、時日おさだめ吉日お撰みて、すヽおはらひし事は、嘉禎二年より慥にみえたり、その年十二月六日己丑霽、為大膳権大夫奉行、召陰陽師等於御所、歳末年始雑事日時勘申之、御煤払事有相論、文元朝臣申雲、新造者、三箇年之内可有其憚と〈東鑑〉みえたるによれば、此以前よりもありし事しられたり、しかりといへども、禁中にては此頃煤払の事ありしやいなや、しるべからず、東鑑は全く武家の記録にして、殊に鎌倉将軍家の進退事実お記したる日記なれば、禁中の見合にはなりがたしといへども、嘉禎二年は、将軍頼経公御在世中なれば、万事何事にかぎらず、大内の御式おうつされ給ふべき事と推はかられたり、しかれば禁中にても、其頃は御煤払ありしなるべけれど、定式の御行事にはあらざりし故、諸家の記録中に見当らざれど、はるかに後れて、親長卿の記に、文明二年十二月十七日、晴、両御所御煤払也としるし、宣胤卿記に、同十二年十二月九日、今日禁裏御煤払とみえたれば、此頃よりは、禁中にても恒例となりて、年々十二月中にすヽお払はせ給ふなり、さて東鑑にみえしごとく、新造の御殿は、三箇年の内はすヽけおとらせ給はぬ事にして、今の世にいたるまで、いやしき賤が家居までも、其規定お守りてとらず、又煤払の時日は、嘉禎二年の頃より、十二月の中、吉日良辰お撰み、且雨などの降ぬ日お用いられしとみえて、親長卿の記、御ゆどのヽ上の日記等にも、幾日晴、御所御煤払也、幾日はるヽ、御すヽはき、いつものごとくありなどみえたるにてしられたり、さて近世は、柳営にても十二月十三日お定日とさだめ給ひしによりて、貴賤おしなべて此日お用る事とはなれり、武家にては、旧家は古来の仕来もあれば、各々其定お用いて、日の晴雨善悪にかヽはらず、すヽお払ふ事なれど、諸家の記録によりて按に、二百年前のむかしは、大概十二月廿日前後の吉日にて、且晴る日お撰まれてすヽお払ふ事、諸日記に顕然たり、扠又西土にても此事所見あり、いはゆる臘月廿四日、毎家掃塵と閩書にみえ、呉中十月廿七日掃屋塵と、歳時記異集に記したるによれば、千万里の海陸お隔、且国異にて人異なりといへども、風俗一致にして、人情も又かはらざりしなり、