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農商工公報

天明年間の飢饉
左に引証するものは、佐々木参議〈◯高行〉が、郷に青森県下巡視の際、陸奥国西津軽郡木造村に於て、僧、菊池勇義といふ者より獲られたる、天明年間の凶歳日記にして、〈此書は明治十三年五月、参議より叡覧に供へ奉られたるものなり、〉其状、惨怛凄愴、実に読むに忍びざるものあり、
翌天明三癸卯年、初春より天気荒続き、土用中尚以て、年中漸く十日許りならでは快晴無之、凶年に及び候、〈◯中略〉 右色々の変難有之ことも、第一六月中旬より町村とも米売買無之、御払米も一け村へ、二俵ばかりづヽ相当り候へば、一日の内に売仕廻、其後一向売手無之、同月廿三日、大風病脊東風(やませこち)のことにて、作毛残らず損じ申候、猶も病脊のあたらぬ村所、三四歩迄の稔もあれども、青森、四け組、金木より下、並に三新田は皆無にて、一粒一杯の澹足なり兼、それより粮種(かてだね)に取り付き、最初は、菜、大根、蕪、なだれ落、大豆の葉等おもて朝夕の飯料とし、其後は、根山へのぼり、九月末まで罷在り、雪路に赴き、山お下り、昼貌の根、山大根、川骨の根、茅むぐり、木賊の根までも掘り集め、栗、梨子はさておき、茨の実、車前子(おほばこ)までも食ひ尽し、それより大豆殻、蕎麦がら、薺の節合はしかぬかにて命お繫ぎ、漸く十一月頃に至り、黒石辺、或は余りある族へ貯へおきし米殻、又は中国より買ひ越し米等、少々づヽ売出し候へども、直段甚高直にて、米は壱匁に三合五勺、大豆は六合、蕎麦は九合、小豆三合致し候ことにて、高なき小者は、調ふることなりかね、歴々の百姓も、家財衣類お売り代なし、二升三升と調へ候者もあれども、第一五拾匁の品物は五匁にもなり不申、さて三つ建ての家は壱匁五分に払ひ、漬物乃至一汁椀と、小家壱軒と取りかへ候やうなることにて、大体の家財、拾匁とはなり不申、田畑屋敷渡し申し度とも、隻の五匁にも受け取る者無之、〈◯中略〉 又楽田、家調、繫田辺の下通りは、死したる人お食ひ申候、出崎村の源次郎と申者の女房など、十四五歳の男子飢死致し候お女両人にて、四日の間にたべ申候、其後何卒して人お丸にてたべたきものと願ひ申候よし、漆派の治介と申者の処にて、子供の泣きごえ致し候につき、隣家より参り見ければ、まだ生きたる子供の股へ食ひつき居り候よし、此の如き類も多し、其外鶏犬は皆無、牛馬の切り売りは、次第に広まり、初は五分代目方百匁もいたし候処、日増しに流行し、後は五分に目方十匁位にもなり申候、馬お殺すもの、一匹三匁づヽ、これお渡世とするものもあり、処々より馬お買ひ求め、或は盗み、六け村へ売り出し、其日の露命おつなぐもあり、種々様々の境界なり、全く人事の業にはあらず、浅ましき世のありさまなり、 豊田村の支村に、かつき派といふ処の、長三郎と申者の忰、今年十六才になりしが、旧冬より人お食ひ助命致し居候処、頃日母と妹餓死いたし候処、二十日ばかりの間、右母と妹お食ひ候て、骨おば薪の代りに焚き居り候由、又同村の清次郎と申す者の子供十五才になり候、両親は餓死致し、たべものもなく、余り苦しさに、豊田村の庄屋方へ罷り越し、粥お乞ひ候処、一二膳の冷粥あり合ひたるお与へて帰し候処、右長三郎の忰其帰りがけおまち受け、半途にて之お庖丁にて刺し殺し、おのれが家へ取り運び食ひ居り候由、如何なることにや、たとひ餓死に及ぶとも、母や妹お食ふこと、凡三千世界にも其ためしあるまじく候、殊更彼岸中にて、心ある者は、乞食非人も追善供養の志あるべきに、鳥畜類にも劣り候境界、誠に鬼も逃ぐべしと思ひ、おそろしきことに覚え候、