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寛天見聞記
事の序に、先一年の飢饉の事お説かん、天保七年八月、諸国大風雨にて、其年五殻不熟にして、天下大飢饉とぞきこえける、されば諸色の価次第に上りて、同八年には御蔵前の相場は、百俵に百五十両ほど、銭百文に白米四合より弐合五勺迄に至りしかば、下賤の者難儀いふばかりなし、火附盗賊多くして、同八年正月廿八日の夜は、江戸中に火災九け所ほど有て、日々物さはがしく、其うへ大疫流行して人多く死す、飢えにくるしみ道路にたほれ死す者、昨日はこヽ、今日はかしこ、幾人といふ数お知らず、市中の人々は、此倒死の者のかたづけにのみ奔走せしに、有がたき御仁政により、両国広小路、神田佐久間町、同鎌倉河岸に御救小屋お建られ、道路に迷ひ飢にくるしむものどもお入置れ、日々に飯お賜り、病者には医薬お賜りしかば、窮民喜び楽しむこと限りなし、されば町々の富豪の者どもヽ、粥お焚て飢人に施し、又は我家近きあたりの窮民に、米銭おあたへなどせしかば、飢お助かる人数おしらず、此時近国には窮民蜂起して、富家に乱妨せしなど聞えしかども、江戸はかばかりの御仁政によりて、かヽる闘論おさらにしらず、