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翁草
百五
丙午之凶歳 往事渺慌たる折から、ひとりの友、我〈◯神沢其蜩〉几辺に遊びて、問て曰、旧年の丙午〈◯天明六年〉元日のえとも丙午にして、而も日蝕皆既なり、仍て火お慎しむべき年なりとて、公武に於て御祈など有し験にや、火一変して水となり、春の内より雨降続き、九夏三伏に暑お不知、何国にも火災の沙汰なく、諸人安堵の思おなす処に、炎熱なき故にや、海内一円に穀不実、水論は勿論、左無き所も水溢れ、殊に東国は洪水にて、江都は神君〈◯徳川家康〉御開国以来、未曾有の水難、其上、上に御大変有之、寵臣御勘気お得られ抔、天変、地怪、人事迄、悉く大凶故、米価素より諸物の価、古今希有に貴く成て、国々の飢饉雲はん方なし、係る凶年、百年来に有しにや、以前の丙午は奈何、余答て曰、以前の丙午は享保十一年なり、余は十七歳なれば、凡の事は覚え侍りぬ、今の問に仍て、尚考ふるに、其年は豊凶の沙汰もなく、隻の年なりき、其ころ老たる人の咄しに、寛文六の丙午は凶年なりしが、今年は無事にて宜敷と雲へるお思ひ出せし許なり、去れば翁が物お覚えて後、旧年程の凶年はなし、七十年来或は西国又は畿内、東北国の変事は折々聞きぬれども、四隅の国々、一円に凶たるお不聞、享保六七年、国々洪水、同十八年、西国の虫入も、米価は凡そ旧年に等しく貴かりしが、余国には格別の変事なかりき、又元文の頃、雨ふり続き、暑無き年一年有し、其頃戯に春、梅雨、秋、冬と雲しなり、其時分は連年畿内洪水して、木津辺、淀、八幡の水難雲はん方なし、山々崩潰へて、諸木折れ倒れ、適々残る喬木も、梢僅に顕れ、半は過るまで、土砂に埋れて小樹の如し、山には青兀の色なく唯盛砂の崩れ掛りたるに似たり、田地は悉く河原と成、川床は地形よりも高く埋り、民村壊れ流れ、多くは其跡淵と成、人の損亡不可勝計、目も当られぬさまなり、洛辺にも加茂川、桂川溢れて、農村〓壊し田地不毛せり、然りといへども、国々悉くは不然、明和の旱も爾(しか)なり、旧年の如き四隅一面の凶は、年久舗無き事なり、元禄の末、世の中懶うく成て、宝永と改元ありしお、世人悦びて、源六殿が出替りて、ほう永事や、世直ろ、と口号み、また、宝永祭は見事な事よ、など諷て、祝ひ直せども、曾て験なく、富士山焼、洛は大地震、大雷、大火、連年続き、世の風俗も、花奢頻りに長じ、通用金銀は黒銅と成り、飢人道路に弊れ、浅猿かりし事共、年長たる人の物語には聞きぬれ共、我未生以前の事なれば、委しき事は知らず、当時のさま実にも其頃に似たれば、凡そ八九十年以来の凶年たるべしと答ふ、