[p.1470][p.1471]
報徳記

凶年に当り先生〈◯二宮尊徳〉厚く救荒の道お行ふ
于時天保四癸巳年、初夏時気不順にして、霖雨止まず、先生或時茄子お食するに、其味常に異なり、恰も季秋の茄子の如し、箸お投じて歎じて曰、今時初夏に当れり、然して此物既に季秋の味おなすこと、凱唯ならんや、是お以て考るに、陽発の気薄くして、陰気既に盛なり、何お以てか米穀豊熟することお得ん、予め非常に備へずんば、百姓飢渇の憂に罹らん歟、於是三邑の民に令して曰、今年五穀熟作お得ず、予め凶荒の備へお為すべし、一戸毎に畠一反歩其貢税お免すべし、速に稗お蒔、飢渇お免るヽの種とせよ、忽にすべからずと、諸民是お聞、笑て曰、先生明知ありといへども、何ぞ予め年の豊凶お知らんや、戸毎に一反歩の稗お作らば、三邑火多の稗なるべし、何れの処に是お貯ん、且稗なるもの、旧来貧苦に迫れりといへども、未だ是お食はず、今是お作りたりとも食ふことお得ず、然らば無用のものと雲べし、仮令人に与ふるといへども、誰か是お受ん、詮なきことお令するものかなと嘲りたり、然れども貢お免るし作らしむ、是お背ば必ず令お用ざるの咎めあらんと、已むことお得ずして俄に稗お作り、無益の事おなせりと怨望する者あるに至る、然るに盛夏といへども、降雨多くして冷気行はれ、終に凶歳となり、関東奥羽の飢民枚挙すべからず、此時に至り三邑の民稗お以て食の不足お補ひ、一民飢に及ぶものなし、始て先生の明鑒予め凶荒お計り、下民お安ずるの深意お知り、我が知の浅々たるお悟り、曾て無益の事となし、活命の令お嘲たるお悔、大に其徳お称す、翌午年に至り、再び令お下して曰、天運数ありて、飢饉となること遅くして五六十年、早くして三四十年、必凶荒至れり、天明度以来お考ふるに、飢饉来るべし、去年の凶荒は甚しからず、未だ其数に当るに足らず、必今一度大凶至らんこと近年にあり、女等謹て是に備よ、今年より三年の間、畠の貢お免すこと、去年の如くすべし、家々心お用い、稗お植て予め飢渇の憂お免るべし、若怠るものあらば、里正是お察し我に告よと命ず、三邑去年の前見明かなるに驚き、且飢渇の害お免れたれば、謹て命に随ひ、糞養お尽して是お作れり、如此すること三年、三邑の稗数千石の備あり、同七丙申年に至り、五月より八月まで冷気雨天、盛夏と雖も北風の寒きこと、膚お切るが如し、常に衣お重子たり、年大に飢う、実に天明凶年よりも甚しき処あり、関八州奥羽飢民火多、餓符道路に横はり、行人潜然として面お掩て過るに至る、此時に当り桜町三邑の民而已此憂お免る、