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翹楚篇
天明三年夏より秋に至る迄、絶て暑なく、ひとへ物著しは唯二三日なるべし、斯る年並なりければ、作毛不熟して、今年より翌四年まで奥羽一統の飢饉とはなれり、されば年来御心〈◯上杉治憲〉お尽されし蓄蔵おひらかれ、夫が上に越後或羽州酒田などにての買米有て、飢に及んとせるには、男子二合、女子一合の積にて、飯米の御手当のあり、味噌お賜り、きるものまでの御手当有りけるゆへ、餓死に及べるはなかりし、かヽるほどの年並なれば、御寝食お安んじ給はず、隻人民の事のみ憂思しめし、御心お尽させ給ひしは、御脚痛と唱へられ、御参府おだに延引し給へるにて、推はかり知り参らすべし、されば貴となく賤となく、粥お用よ菜菓おかてにしてくらへなど、触渡し給ひければ、以後は朝の御膳には粥お聞し召、例として怠り給はざりし也、唯御国民お思し憂せ給ふのみか、他の人迄に及ばせ給へる事有、御国民は君徳によつて、幸に飢餓お免がれしが、隣国の飢餓人多入来りて食お乞は、道路に行倒れて死する者亦なきにしもあらず、されば道路に倒れ死せるものあれば、其村其処の者の量として、其所に埋み、其うへに札建て、よるべの人お待事、是迄の例なりしお、以後は其あたりの寺に葬り、布施〈銀五匁とて銭四百文〉あたへて回向なさしめ、大町札の辻にも札立て、よるべのものお待べしとの御意下れば、天明四年お始として、以後は上の御施主にて葬り回向し給へる事にはなりぬ、
 ◯按ずるに、凶年救助に関することは、政治部賑給篇及び救恤篇に詳なり、