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翹楚篇
天明四年の事也、去年の飢饉に、人民安からざる折ふし、連日の雨気にて、或曇り或雨ふり、曇雨相半して、晴るヽ日更になく、盛夏の頃袷お重ね、或は綿入おきるといふ程なりければ、今年の作毛覚束なく、人民危急の思ひおなしけり、斯りければ六月十一日、村泉寺宝珠寺へ五穀成就の祈禱仰付られ、猶も御大事に思し、憂させ給ひ、二丸へ諸寺院お召れ、御堂〈御本丸東南の隅、謙信公の御遺骸お安置ましませる御霊屋、〉において、二夜三日の御祈禱御執行有り、勿体なくも公御食お断ぜられ、二夜三日の間御堂に籠らせ給ひける、至誠感神とかや、十一日十二日には晴或微雨有り、十三日晴上りてより、二十九日まで、日々の大暑とはなりける、是につき又難有ことの有ける、公の御断食にて籠らせ給へる事お、御父重定公聞し召、浅からぬ御誠は御感じ思召ながら、斯る君にして煩せ給はヾ、人民などか安かるべき、是非の論なし、御志お奪せ給ひて、御食お進めまいらすべきとの御事にて、七旬に近き御老体の御みづからも、御潔斎し玉ひ、粥かしがせ、御みづから御堂へ持上りましまし、ひたすらに御進め進らせられしかば、何かは辞し背かせ給ふべき、押いたヾき給ひてきこしめせしとぞ、