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我邦氏族、古来三別あり、天神地祇の胄、之お神別と雲ひ、天皇皇子の派、之お皇別と雲ひ、漢三韓の族之お諸蕃といふ、各ゝ加婆禰お賜ひて尊卑の階級お叙し、之に由りて貴賤の別お定む、即ち高姓お賜へば栄お子孫に貽し、罪ありて之お貶さるれば辱お後代に伝ふ、其氏族は大小氏に別たれ、各氏の氏上、其氏人お統領し、其職お世々にして朝廷に奉仕したり、大化の改新に当り、此古制お破りしより、後には職お以て氏とすること廃れ、職号お負ふと雖も、唯類族お別つに過ぎざるものとなれり、
姓は之お通じていへば、氏と加婆禰とお兼ねたるものにて、拆ちていへば、単に加婆禰お称するなり、加婆禰は、之お以て尊卑お別つものなれば、数種の等級あり、其順序は詳にするお得可からずと雖も、天武天皇の時定められたる八色姓により、又此等の姓お授けられたる事実によりて考ふれば此制の制定前後に於ける姓の等級は、略ゝ之お推知すること難からざるなり、
大化以前の制お考ふるに、神別諸氏には連姓お賜ひ、皇別諸氏には臣姓お賜ふこと、通例たりしが如し、而して其臣連は、各ゝ其氏族及び部曲の民お統領し、其上に大臣大連ありて、大臣は、臣姓諸氏お率い、大連は、連姓諸氏お率い、以て大政に参与せしなり、大化以来、此制廃れ、朝延には左右大臣お置かれ、氏卜職との関係また古の如くならず、天武天皇十三年、八色の姓お定め、天下の万姓お混同して、偏に壬申の功によりて、更に等級お序せられ、而して当時皇別の上氏として、真人第一位お占めしも、後には皇子の姓お賜ふもの多く朝臣お以てせられ、終に真人は朝臣の次に位することヽなれるより、加婆禰の制漸く濫る、按ずるに、皇孫瓊瓊杵尊、天鈿女命に猿女君の姓お賜ひしは、是れ賜姓の史に見えたる初にして、爾後姓お賜ふに、或は神宣に困り、或は功業に因り、或は又罪過によりて賜ふ等の類、代代是れあり、而して其氏お命ずるは、居地名、神名、人名、人の形状、或は動植器物の名に因りて其称お附する等、其類一ならず、
皇子に姓お賜ひ、降して臣下に列することは、桓武天皇に始まり、嵯峨天皇の時、特に皇室の費途お節せんがために、皇子に姓お賜ひしより、代々之に効ひしかば、爾来源平の二氏、天下に弥蔓し、藤橘二氏と共に四姓と称せられて、其盛大お致せり、然るに冷泉天皇の頃より、此事漸く廃れ、花山天皇、其二皇子お僧としたまひしより、是れ亦後代の例となりて、後深草天皇の皇子、久明親王に源姓お賜ひしより以後は、皇子に姓お賜ひしこと史に見えず、
上古に於ては、姓氏は政治と密接の関係ありしが故に、常に其紊乱お防ぐ必要あり、允恭天皇の時、其制大に濫れたりしにより、探湯お行ひて之お正されしことあり、氏卜職卜離れたる後に至りても、姓お以て氏の尊卑お分つことは仍ほ行はれしかば、輒く之お変改することお許さず、多くは避くる所あるにより、或は嫌お防がんがため、或は官職に応ぜんがために、請によりて改姓お許されたり、又戸籍の誤りお正し、或は本宗の姓に復せんがため、或は又母の姓に役ひて之お冒したるもの、貴姓お偽りて冒したる者など、復姓お許されしことあり、又罪あるものは、其状によりて加婆禰お貶し、又は之お奪はれしこともあり、中古漢学隆盛の頃よりは、資に修姓すること行はれ、菅原お略して菅と称し、藤原お略して藤、又は滕に作るが如き、此類甚多し、然れども是れ唯漢土の風に効へるものにて、固より私事に属す、