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古史徴
一夏
戸令に、〈○中略〉凡戸籍恒留五比、〈○中略〉とある条の本註に、近江大津宮庚午年籍不除と見え、〈近江大津宮とは、天智天皇の宮所おいへり、〉此の義解に、雄朝津間稚子宿禰尊御世、〈此は允恭天皇の大御名なり〉諸氏争姓、紛乱不定、即煮湯令以手探、詐偽者煉、真誠者全、於是定姓造籍、是為庚午年籍也とあり、〈此文に真誠者全と雲るまでは、允恭天皇の御世に有し事お雲るにて、上文に注せるが如し、於是定姓と雲より以下は、天智天皇の庚午年に戸籍お造しめ賜へる事お雲て、其は允恭天皇の御世に、既に雲々の事有し故に、また然る粉乱の起らむ事お所思し坐て、姓お定賜ひ戸籍おも造しめ賜へる、是ね庚午年籍といふと雲るなり、日本紀通証に、此義解の文お謬なりといひ、允恭御宇無庚午年と雲るは、此意お思ひ得ざるなり、殊に允恭天皇の御宇に庚午年なしと雲へれども、其十九年と雲ける年は庚牛なりしかども、事お紀さヾる故に思ひ漏せるなりけり、〉本註に庚午年籍不除と有は、戸々の戸口姓氏お定め記されたる元籍なれば、此お以て本お糺し給ふにぞ有ける〈其は右京皇別下佐伯直の条に、誉田天皇の針間国に巡幸して、伊許自別命に針間別佐伯直姓お賜へる事お託して、爾後室至庚午年、脱落針間別 三字、偏為佐伯直と見え、和泉国皇別大家臣の条に、天智天皇庚午年、依居大家負こ大宅臣姓と見え、右京神別下丹比宿禰の条に、仁徳天皇の御世に、色鳴宿禰の丹比姓お負る事お託して、其後庚午年、依作新家加新家字、為丹比新家連也と見え、山城国神別神宮部造の条に、崇神天皇の御世に、吉足日命に宮能売公の姓お賜へる事お記して、然後庚午年籍、註神宮部造也と見たるなどお思ひ合せ、また続紀にも、多く庚午年籍とて引出たるお考へ合せて弁ふべし、但し延暦十年十二月の下に、伊予国越智郡人正六位上越智直広川等五人言、広川等七世祖、紀博世、小治田朝廷御世、被遣於伊予国、博世之孫忍人、便娶越智直之女生在手、在手、庚午年之籍、不尋本源、誤従母姓、自爾以来、負越智直姓、請依本姓賜紀臣許之、と有お思ふに、天下の人民の万姓お総録せる籍にて、巻数はた多ければ、かヽる誤も有けむは、まことに然も有べきことなり、さてまた姓氏録の左京皇別下葛城朝臣の条に、官府改姓と雲書名見ゆ、此は右の如く改姓ありし事お記せる書なりしにや、〉