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姓序考
宿禰
宿禰姓は、天武朝廷の詔に、八色姓お改定め賜へるとき、三曰宿禰とみえたり、もとは称言なりしお、此御代に姓にせられし也、宿禰は古事記下巻遠飛鳥宮の段穴穂御子の御歌に、須久泥(すくね)とみえたれは然訓べし、宝亀四年五月辛巳・足尼為宿禰とみえたれば旧は足尼といへりし也、〈○中略〉太古宿禰は称言なりしよしお雲は、穂穂積臣大水口宿禰、〈祟神紀〉的臣砥田宿禰、〈仁徳紀〉紀男麻呂宿禰、〈祟峻紀〉坂合部連贄宿禰、〈雄略紀〉大健倭直長尾市宿禰、〈垂仁紀〉武内宿禰、波多八代宿禰、野見宿禰等、みな称言なり、〈穂積臣、的臣、坂合部連、大倭直などは姓おいへるにて称言なるおしるべし、〉後世の卿又公といへるたぐひのことヽすべし、天武朝廷十三年十二月戊寅朔己卯、五十氏に宿禰姓お賜へりし氏々は、旧はみな連姓の氏々なれば、太古の四姓〈臣連二造〉にたぐひせば、朝臣姓は、太古の臣姓にたぐひし、宿禰姓は連姓にたぐひすべき也、こたび忌寸よりうへに考定めしものは、弘仁二年秋七月辛酉、右京人正六位上朝原忌寸諸坂、山城国人大初位下朝原忌寸三上等、賜姓宿禰とみえしもて、第三に序次せし也、又坂上氏人にかぎりて大宿禰といへり、坂上氏人に宿禰姓お賜へることは、延暦四年六月癸酉、坂上、内蔵文、調、丈部、谷、民、佐太、山口、平田等忌寸姓一十六人、賜姓宿禰とみえて、大宿禰と雲べきよしはみえねど、同年秋七月己亥、従三位坂上大宿禰苅田麻呂為左京大夫といへれば、こヽの間に大宿禰になされし詔のありしお国史に脱せしならむ、自是以前忌寸姓なりしとき、大忌寸といふべきよしは、天平宝字八年九月乙巳、坂上忌寸苅田麻呂、賜姓坂上大忌寸とみえたれば、私に雲べきにあらず、故思ふに類族ども、みな宿禰姓お賜へるから、殊恩ありて坂上氏にのみ大宿禰お賜へるにて、太古の大臣大連の例にならへることなるべし内蔵、文、谷、佐太、山口、平田の六氏は、みな坂上氏と同族なれば、是等の忌寸なりしときも、宿禰となりても坂上氏の統領せしなへに、大忌寸また大宿禰お賜へるにこそあらめ、然ならざらむには、よしもなく大宿禰といふべきことかは、