[p.0045]
姓序考
忌寸
忌寸姓は、天武朝廷の詔に、八色姓お改定められしとき、四曰忌寸とみえし也、忌寸姓は、皇別及神別の氏人にもあれど、〈姓氏録に、忌寸姓は皇別の氏にひとつ、神別の氏に四五ならではみえざるなり、〉諸藩の氏々には、ことに多き姓なり、〈諸藩の氏々に多きことは、姓氏録おみて知るべし、〉忌寸姓も旧は称言なりしなるべし、そのよしは異国より投化の人おば神宮に奉るヽ例にて、斎置の意也、〈すべて神宮に奉れるものには、斎字おそへ雲ことは、斎服殿、斎斧、斎助、斎柱などいと多かり、斎忌相通へることは、延暦廿二年三月乙丑、右京人忌部宿禰浜成等、改忌部為斎部とみえ、姓氏録にも、忌部氏お斎部とかけり、寸置かよへることは、稲置お稲寸と書るにて可知、〉其称言もて、やがて姓とせらるヽことは宿禰の例とすべし、忌寸は伊美伎(いみき)と訓べし旧は伊美吉とかけりしお、天平宝字三年冬十月辛丑、天下諸姓、伊美吉以忌寸とみえたれば、こヽに改められしお思へ、天武朝廷十四年六月乙亥朔甲午に、忌寸姓お賜へる十一氏のうち、半は諸藩の氏々なれば、諸藩の氏人のむねとせし人々には忌寸お賜へるお知るべし、故天武朝廷の詔に、八色姓お改定められしとき、諸藩のむねとせし人々お任るべくて此姓お置れしとやいふべき、さて真人、朝臣、宿禰、忌寸の四姓は、天武朝廷の詔にて始て置れし姓なるから、つき〴〵に賜へることみえたり、其けぢめは真人おうへなき姓とせられ、朝臣は臣達のうへにはうへなき姓とせられ、〈臣達の姓のうへなきものは朝臣なり、皇子達には一等くだりて朝臣姓お給へれど、神別の氏々には真人姓お給はすことなきおもて、朝臣姓は臣達の最上の姓なるお知れ、〉宿禰は皇子達及臣達の次なるものヽ姓とせられ、忌寸は諸藩の氏々のうへなき姓とせられしなるべし、〈是に天武朝廷の詔に、八色姓お改定められしときのことおなしも思ひはかりて雲ること也、これより後に、諸蕃の氏々にも朝臣宿禰等の姓おば賜へり、されど諸蕃には忌寸姓いとおほし、〉こたび考定て第四に忌寸姓お置るものは、既に雲ひしごとく、弘仁二年秋七月辛酉、右京人正六位上朝原忌寸諸坂、山城国人大初位下朝原忌寸三上等、賜姓宿禰とみえしもて、如此は雲る也、