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氏族考

忌寸は伊美吉(いみき)と訓べき事、天平宝字三年冬十月辛丑、天下諸姓、伊美吉以忌寸、とあるにて知べし、此姓神別また皇別の氏人にもたま〳〵はあれど、諸蕃の氏々に殊に多き姓なり、是も旧は称言にて、異国より投化し人お神宮に献らるヽ例にて、斎置の意なりと雲説もあれど、斎君(いみきみ)の義なるべく思はる、いかにとなれば、古語拾遺に至於軽島豊明朝、百済王貢博士王仁、是河内文首始祖也、秦公祖弓月、率百廿県民而帰化矣、漢直祖阿知使主、率十七県民而来朝焉、秦漢百済内附之民、各以万計、足可褒賞、皆有其祠、未預幣例也、至於後磐余稚桜朝、三韓貢献、奕世無絶、斎蔵之傍、更建内蔵、分収官物、仍使阿知使主与百済博士王仁記其出納、更定蔵部、至長谷朝倉朝秦氏分散、寄隷他族、秦酒公進仕蒙寵、詔聚秦氏賜於酒公、仍率領百八十種勝部、蚕織貢調、充積庭中、因賜姓宇豆麻佐(うづまさ)、自此而後、諸国貢調、年々盈溢、更立大蔵、令蘇我麻智宿禰検挍三蔵、〈斎蔵、内蔵、大蔵、〉秦氏出納其物、東西文氏、勘録其簿、是以漢氏賜姓為内蔵大蔵、令秦漢二氏為内蔵大蔵主鑰蔵部之縁也、とあるによりて按ふに、秦漢より帰化る氏人の上たる者は、秦公東西文部などにて、其氏々に君たる族なるが、斎蔵ともの出納帳簿お掌る蔵部の君たる由に聞え、また同書に、其四曰忌寸、以為秦漢二氏及百済文氏等之姓とある註に、蓋与斎部共預斎蔵事、因以為姓也、とあるにて著ければなり、