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古事記伝
四十
使主と雲号は、書紀応神〈の〉巻に阿知使主、都加使主と雲人あり、此記高津宮段に見えたる奴理能美も、姓氏録に努理〈の〉使主とあり、書紀雄略巻に、漢使主等、賜姓曰直とあるは、かの阿知使主、都加使主の子孫にて、漢人なり、又姓氏録に、使主の尸の姓これかれ見えたるも、皆諸蕃なり、されば此はもと韓国などより出たる号か、はた皇朝にて蕃人の料に制られたるか、何れにまれ蕃人の号なり、さて此お富美(おみ)と雲ことは、書紀顕宗〈の〉巻に日下部〈の〉連使主と雲人名ありて、使主此雲於弥(おみ)と訓註あり、そも〳〵於弥(おみ)は韓語とも聞えざれば、此は皇国にて、臣(おみ)の称お此使主の訓にも兼用ひられたるにやあらむ、さて臣(おみ)と口語は同じけれども、戎人のは、使主と書る文字お以て分別られたるなるべし、こはなほよく考ふべし、さて書紀仲哀〈の〉巻に、中臣〈の〉烏賊津(いかつ)〈の〉連とある人お、神功巻には烏賊津使主(いかつおみ)と書れたる、是も使主は例の混れにて臣(おみ)なり、中臣氏は臣の尸に非れば、此臣は下に附て雲るにはあらで、伊加都意美(いかつおみ)と雲名なり、此氏には先祖にも臣と雲る名彼此系図に見え、続紀卅六に、此人の父の名も意美佐夜麻と見え、此人も伊賀都臣(いかつおみ)と見えたり、又三代実録姓氏録などに、雷大臣命(いかつおみの)とあるも此人にて、此又臣(おみ)お例の大臣に混(まが)へたるものなり、大かたかくの如く、古書ども大臣(おほおみ)と臣(おみ)と使主(おみ)と混ひたること多し、心して看別べし、又此伊加都臣の臣(おみ)は、姓の尸お名の下に附て雲臣(おみ)とも紛ひぬべし、