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姓序考

臣姓はいと古き姓なることは既に雲り、臣は意美にて大身(おほみ)の意にいへり、〈○中略〉意美はもと称言の姓になりしもの也、称言の意美は、臣姓の出来にける後に雲るはみな使主とかけり、然れども臣の意に雲ること也、臣と使主の相通へるよしお雲は、古事記下巻穴穂宮の段に坂本臣等之祖根臣とみえしお、安康紀には坂本臣祖根使主としるし、此人お雄略紀には根臣とかけり、又履中紀には円大使主とみえしお、雄略紀には円大臣としるしたり、古事記下巻穴穂宮の段には、都夫良意富美(おほみ)とかけり、故臣と使主のかよへることおしるべし、使主おしも意美(おみ)と訓ることは、顕宗紀に、使主此雲於弥(おみ)とみえたれば、勿論臣は大身の意なりと師はいはれたれど、そはもとお考られざりしから如此いはれしにて、うけがたし、もと臣姓は称言よりなれるものにて、たヽへごとなるは使主とかけり、ことの意も則使主にて、大身にはあらず、連お群主(むれうし)なりと師のいはれしにむかへて思ふに、使主は使人(おびと)の中の主といふ義なるべし、如此(か主)れば意美の称は、君に対へて雲るものにて、傍より雲ふに非ずとすべし、又直に臣字お以て称号にかきしものは、仁徳紀に小泊瀬造賢遺臣、的臣祖口持臣などみえたり、師の使主は、漢土または韓地の官名のこなたに移れるならむ、さるから姓氏録の諸藩の氏々に多くみえしといはれしもたがへり、姓氏録に、使主お以て姓とせしものは、大和国神別に県使首、〈首主かよへることは、村主条にいふべし、〉和泉国天孫に末使主、左京諸藩に漢和薬使主、百済比高使主、高麗後部薬使主、山城国百済末使主、未定雑姓に百済長田使主などみえしのみなり、使主姓お賜ふと雲ことは国史にみゆることなければ、このみえし七氏の使主は、みな臣姓なることあかきことおや、〈漢土また韓地の官名のこなたにうつりたらんには、天孫また神別の氏の姓にはせらるべきにあらず、されどこの七氏にかぎりて、使主の文字おかヽれしは、ゆえよしありしこともあるべけれど、そは考がたきわざにしあれば、臣使主相通へる例もて、臣姓なりとはいへり、〉使主もて称号にせしは、中臣烏賊津連お允恭紀に中臣烏賊津使主といひ、姓氏録に後漢霊帝三世孫阿智王お阿智使主ともいへり、阿智王は、桓武紀延暦四年六月癸酉、右衛士督従三位兼下野守坂上大忌寸苅田麻呂等の上表にもみえしおもて、称言なるお思へ、さるから姓氏録諸藩の氏々の祖先おいへるに使主といへるもの多し、是によりて師は韓地の官名にやといはれし也、されど王と雲べきほどの人々ならではいはざれば、官名にはあらで称言なるお思ふべし、こたび臣お忌寸の下に序次せしものは、忌寸より宿禰お給へることはみえたれど、臣に移れること国史にみえざれば、忌寸の下とは定めつ、〈秦宿禰、坂上大宿禰などは、みな忌寸姓よりうつれる也、〉されど臣姓は、太古はことに威稜ありし姓なることは、皇別の氏々に多かりしおもて思ふべし、君臣の義にな思まがへそ、