[p.0052][p.0053]
姓序考

公姓は旧は君と雲ひしお、天平宝字三年冬十月辛丑、天下諸姓、著君字者、換以公字とみえしより公字お用ることヽなれり、公は伎美と訓べし、旧は諸国処々にありて、其地に公として治めし人お雲り、さるから皇子達に諸国お賜へるに此姓お負へるが多く、公姓なるは地号おもて氏とせしもの多し、古事記中に皇子達に君姓おいへるもの三十九氏なるに、みな地号お以て氏とせられし也、天武朝廷の詔に、八色姓お改定め給ひしとき、近き皇族なる君姓の氏々には、真人姓及朝臣姓等賜へりしかども、なほ姓氏録皇別に、公姓の氏々三十六氏あり、君姓はことに出て国史ともに雲れしことはみえねど、太古はいと重きものにせられしなへに、古事記中には、皇子達に多くこの姓見えたり、其国に在ては、ことにいきほひあらしものにやありけん、筑紫君石井、〈筑紫君は、大彦命の後なることは、孝元紀及国造本紀等に其こと委にみえたり、〉のおヽしかりしざまは継体紀にみゆ、今現に其墓地ありて、上古のなごりの知らるヽは、其図おみても 強大さまのよくみゆるおや、故思ふに、諸国の君は、其地地お標て、心のまヽにことお行ひたらしものならむ、されば君はしも、姓ながら官にたぐひたるもの也、公姓より以下の姓は、みな姓ながら官にたぐひせしものどもなれば、太古の官名のやがて姓になりしとやいふべき、次たヽへなにはあらじ、〈○中略〉公姓につきて、太古には別姓ありき、その正しくものにみえしは、孝徳紀に、別、臣連、伴造、国造、村首、又古事記中巻日代宮の段に、国々之国造、亦和気及稲置県主とみゆ、師のいはれしは、別は国造稲置などの類にて、諸国処々にありて、上として其地お治むる人お雲、名義は別とかけるは借字にて、吾君兄(わきえ)の意なるべしといはれき、太古は重きものにせられし姓なるにや、古事記中に、皇子達に別姓お負給へるもの二十五氏ありて、みな各国の地号もて氏とせられたり、されど別姓ははやくうせにしにやあらん、後には別おもて氏とせられし也、そは天平神護元年三月甲辰、備前国藤野郡人正六位上藤野別真人広虫女、右兵衛少尉従六位上藤野別真人清麻呂等三人、賜姓吉備、藤野和気真人、藤野郡大領藤野別公子麻呂等十二人、吉備藤野別宿禰とみえたり、〈○中略〉是等みな和気お以て氏とせられたれば、別姓は失にしことお思へ、別姓にしも太古公姓おそへ賜へるお思ふに、別と雲は、公といへるより下なりしものにて、別ながら公のことおとり行へるおさして、みな別公と雲しにやあらん、其号の転りて、やがて氏姓の如なれるにぞあべき、さならざらんに、何そも姓お重雲べきことかは、