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古事記伝
二十九
県主(あがたぬし)は、倭〈の〉国内なるお始め、国々に在る県お掌れる者の号なり、〈此県は上に雲る如く、朝廷の御料の県なり、此御世(成務)のほどなどは、たけヾ何となきなべてのり地お県と雲ことはいまだあらざりき、されば県主と雲物も、凡ての地にあるにはあらず、〉其記中に見えたるは、高市県主、師木県主、十市県主などあり、書紀神武巻に、給弟滑猛田邑、因為猛田県主、〈こは倭の国十市の郡なる猛田にて、其邑お賜ひて、其処にある御県の司とし賜へるなり、同き猛田の内に、御県の地と此人に賜へる地とあるより、此文に依て県主と雲は、たヾ其地お領(うしは)ける者ぞと勿思ひまがへそ、〉弟磯(おとし)城(き)名黒速(くろはや)、為磯城〈の〉県主など見ゆ、神武天皇の御世よりありし物なり、さて此も国造、君、直、別などの類なる者にて、日代宮段に、自其余七十七王者、悉別賜国々之国造、亦和気、及稲置県主とあり、〈書紀安閑巻に、津国の三島県主飯粒が、 〓田四十町お天皇に奉献しこと見ゆ、又天武巻に、高市郡大領高市県主許梅と雲人あり、孝徳御世の御制よりして、県主なども郡司に任しがありしと聞えたり、〉此も其職お子孫世々に伝ふることに、某県主と雲、即姓なり、〈県主の姓は、此記にも書紀にも見えたるいと少し、姓氏録に出たるも甚少し、御県にのみありし物なればなるべし、姓氏録に、たヾ県主とのみの姓もあるは、然る由ありけん、〉伊邪河〈の〉宮〈の〉〈○開化〉段に旦波大県主、朝倉〈の〉宮〈の〉〈○雄略〉段に志幾之大県主と雲もあり、此は臣に大臣、連に大連と雲如く大お如へて称へたる物か、又思ふに、此に大県小県ともあれば、こは其県の大なるお雲るにもあらんか、〈若然らば、大は其県に附たるにて、県主には係らず、〉