[p.0062][p.0063][p.0064]
姓序考
県主
県主姓は、いとふるきものにて、官名なりしが姓になれりし也、〈○中略〉さて県のむねとせしものは、高市、葛城、十市、志貴、山辺、添の六県也、是はことに京畿に在て、朝廷の御料給ふ陸田物お作りて貢進る地なるから、祈年祭祝詞、又月次祭祝詞、この外の祝詞等にもみえ、孝徳紀大化元年八月丙申朔庚子詔に、其於倭国六県、被遣使者、宜造戸籍、とみえしも、高市以下の六県お雲るなり、姓氏録にも、添県主、志貴県主、高市県主の三氏はみえたり、外の三県主は、県主姓お矢へるもあり、又亡失もあるべし、神武朝廷二年春二月甲辰朔乙巳、以剣根者、為葛城国造、とみえしお、姓氏録大和国神別天神葛木忌寸、高御魂命五世孫、剣根命之後也、又河内国神別天神葛木直、高魂命五世孫、剣根命之後也、とあれば、うつりて忌寸姓になり、又くだりて直姓にもならし也、十市県主は、孝安紀に、十市県主五十坂彦、孝霊紀に、十市県主等祖女真若媛、古事記中巻黒田廬戸宮の段に、十市県主之祖大目などみゆ、山辺県主は、廃帝紀第廿一に、山辺県主男笠とみえしのみ也、此六県主さへ転変れるもて、各国の県主の散亡しことお思へ、されど姓氏録に、鴨、志紀、紺口、珍努、賀茂、犬上等の六氏の県主おのせたら、又県主大県主の二氏おのせしは、姓の氏になりしなれど、旧そのゆえあるもの也、和泉国皇別県主、和気公同祖、日本武尊之後也とみえしは、和泉国大鳥郡の県主なるべし、此郡に大鳥神社鎮坐こと神名帳にみえたり、大鳥神社は、倭建命お奉斎神社なれば、此神の御系もて県主とせらるべき由あれば也、然ならんには、大鳥県主としるさるべきお、大鳥お省きて、たヾ県主とせしものは、和泉国神別天神大鳥連、大中臣之同祖、天児屋命之後也とみえし、氏人の威稜ありて、県主のかたは大鳥お省きて雲るならめ、上古には如此例いと多し、〈垂仁紀十一年春三月癸卯朔丙午、科諸国造等、為衣通郎娘定藤原部、天武紀下十二年九月丁未、藤原部造、賜姓曰連、孝謙紀天平宝字元年三月乙亥、勅自今以後、改藤原部姓為久須波 〓部君とあるは、当時藤原氏人、威稜あるおもて、藤原部お葛原部に改められし也、もと藤と葛とは相通へり、特持紀には、藤原朝臣お葛原朝臣ともかけりし、〉大県主は、旧凡河内氏とひとつ氏人なるお、雲別べくて、如此雲り、其由は古事記上巻に、天津日子根命者、凡川内国造雲々等の祖也とみえしお、神代紀上巻に、天津彦根命、是凡川内直雲々等祖也とみゆ、古事記に凡川内国造とあるは其最お雲り、神代紀に、凡川内直だあるは、当時のさまにて雲し也、このすぢの氏人は、天武朝廷十二年九月丁未、凡川内直、賜姓曰連、〈自是以前、十年夏四月庚戍、川内直県、賜姓曰連とみえしは、県一人に連おたまへるにて、氏人のこと〴〵給へるにはあらず、十二年なるは、氏人悉給へるなり、〉十四年六月乙亥朔甲午、凡川内連、賜曰忌寸とみえて、つき〴〵になりのぼれり、河内氏はこれのみならず、姓氏録摂津国神別天孫凡河内忌寸、天穂日命十三世孫、可美乾飯根命之後也とあるは、天津彦根命と兄弟の神にて、天照大御神の御子也、〈兄弟同氏お雲ことは、是のみならず例あり、〉又諸蕃に、河内国漠河内忌寸、山代忌寸同祖、旅国白竜王之後也、又漢河内造、春井連同祖、慎近王之後也、〈慎近王は、後漢光武帝の末也、〉百済河内連、出自百済国都慕王男陰太貴首王也、などみえて、別種の氏々多し、〈この外諸蕃に、河内画師、河内漢人などいふもみえたり、〉是に雲別べきとて、氏の本源なるお凡河内と雲、〈凡河内の凡は、大の意に雲り、大は多の義なるべし、さるから河内氏は於保之(おほし)と訓べくて、凡の字おかけるもの也、凡大の通へることは凡河内氏お、安閑紀、椎古紀、舒明紀等に大河内とかけり、万葉集第二に、天数、凡津子之とある凡津は、近江国志賀大津のこと也、凡津子お志我津子とも読れば、かよへることお思へ、本源なる河内氏おしも於保之といふよしは、氏人の広大なりとの称言に冠せしにやあらん、旧は凡お阿布志とも訓りしにや、持統紀に、阿布志海部河瀬麻呂とあるは、凡海氏人なればなり、〉其次お河内と雲へり、〈河内氏は、欽明紀、天武紀、元正紀、孝謙紀、称徳紀等にみえし、〉是等に雲別べくて、河内国造の氏人おば、たヾ大県主と雲ることになりしならむ、〈県主おしも国造と雲は、大号おいふにて、葛城県主お神武紀に、葛城国造といはれし例なり、〉又思ふに大県主としも雲るは、上古各国に、大県小県の二種ありしなへに、河内氏の任されしは大県なりしから、則大県主といへるにて、称言の大にはあらざるべし、このふたつのこと、思わきがたし、