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姓序考
稲置
稲置姓は天武朝廷の詔に、八色姓お改定め給へるとき、八日稲置とみえたれど、いと旧き姓也、成務朝廷五年秋九月、令諸国、以国郡、造長、県邑置稲置、並賜楯矛以為表、このとき正しく稲置は定め給へる也、此御世より以前に、蒲生稲置、伊賀稲置、那婆理稲置、三野稲置、葦井稲置など、古事記にみえたり、されど賜へることのみえざれば、成務朝廷にて、諸国に置れしとき賜ひしにもあるべし、如此(かヽ)れば当時には職にて、姓にあらざりしならん、うつりて姓になりしことの正しくみえしは、允恭朝廷二年春三月丙申朔己酉、立忍坂大中姫命為皇后雲々、闘鶏国造雲々、貶其姓謂稲置、とみえたれば、当時は姓になりし也、孝徳朝廷大化元年八月丙申朔庚子の詔に国造、伴造、県圭、稲置とみえたれば、決(うつな)く職の姓になりしもの也、師の雲れしは、稲置は伊良君(いらきみ)の意ならん、良(ら)と那(な)とは通へる例あり、〈古事記に比 〓鳥命といふお、他書には夷鳥命とあるこれなり、〉伊良は郎女(いらつめ)などの伊良なり、〈伊 〓は伊呂兄伊呂弟(いろせいろと)などの伊呂、又人(いり)彦入(いり)姫などの入などとみな同言にして、親み愛しみていふ称なり、〉といはれき、故思ふに、稲置は称言にはあらざるべし、太古国用のむねとせられしものは稲米なりしかば、ことに重きものにせられし也、然れば諸国に作出せる稲米どもは、各地に納置て国用お弁へられしなへに、安閑朝廷二年五月丙午朔甲寅に、廿六処の屯倉お諸国に置れ、又推古朝廷十五年、毎国置屯倉とみえしにて思ふべし、〈屯田屯倉のことは、古事記伝第廿六卅七左に委雲れば並みるべし、〉如此重きものにせられし稲米にしあれば、其お納置るヽ屯倉の司お、やがて稲置と雲しが、後に屯倉の制改替られて、此職の自然まれ〳〵になりゆきしならん、又は村主の氏々は漢土人にて、こヽろさかしければ、これらの人々の兼て稲置おも司どりしかば、旧よりありきし稲置の絶しにもあるべし、師の稲置は伊良君ならんといはれしはかなひがたし、思ふに稲君なりしお、其用お文字に当て、相置とかヽれしならめ、さて各国に作出せる稲米どもお納置るヽ処おしも相置ご雲由は、其地に稲君の在居りて、民人の作出せる稲穀どもお収めて守れるから、やがて其守人の名称およべるにて、伊那伎(いなき)に稲置の文字お当しもこのゆえなり、其稲置の趣の漢土の屯倉の制にかよひたれば、書紀に屯倉の文字おかヽれしならん、屯倉お美夜気(みやけ)と訓るものは、官家の義にて、彼稲君の居処おいへる也、上古ことに多かりしことは、地号に遺りて、三宅といふ号の諸国にあるにても知るべし、是処より皇子達皇后等の費用お弁へられしにや、姓氏録左京皇別に、稲木壬生公と雲氏みえたり、稲木は、神名帳に、尾張国丹羽那稲木神社、又和名抄に尾張国丹羽郡稲木〈以奈木〉どみえしにて、上古稲置の地号になれる也、〈置、木、かよはしかけり、〉壬生は、入部治部などもかきて、皇后及皇子達の湯沐地おさしていへり、〈壬生のことは後にいへり〉稲置は朝廷の御料地ながら、其処より皇后及皇子連のことおも兼用せしお稲木壬生といひしが、やがて氏になれるに公姓お賜へる也、