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姓序考

首は、意毘登(おびと)と訓べし、〈○中略〉太古のさまお思ふに、首は官名なりしものヽ、やがて姓になりしなるべし、正しく司にてみえしは、清寧紀に、播磨国赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目とみえたり、〈屯倉は諸国処々にありて、其部曲の民お司れる人おさして屯倉首とはいへり、〉故上古は其職の部曲お統領るお首とはいへりし、其職は廃れてやがて氏となりしものヽ姓氏録にみえしは、商長首、度守首、錦部首、御手代首、蝮玉部首、刑部首、佐伯首、物部首、津首、民首、民使首、韓海部首、任道首、靭編首、船子首、鵜甘部首、猪甘首、工首の類は、みな其職お仕奉りしもの也、後に其職お仕奉ることは失て、職号の氏となれる也、後には絶しことながら、すべて某部といへるには、みな首のありしことなるは、忌部、刑部、海部のたぐひにても知るべし、〈忌部は宿禰姓なれど、上古は首姓なりしが、天武朝廷九年に、忌部首子首に連姓お給へることみえたり、されどなほ忌部に首姓あることは、国史にみえたり、〉この外首おもて称言に雲ひしは、允恭紀に、首也余不忘矣、こは対人おさし雲り、又首お意毘登(おびと)と雲れず、毘登(びと)と雲れしことあり、そは宝亀元年九月壬戌、以去天平宝字九歳、改首史姓、並為毘登、彼此難分、氏族混雑、於事不穏、宜従本字とあるにて知るべし、
○按ずるに、首お毘登と改めしは、聖武天皇の御諱お避けたるなり、