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古事記伝
四十四
当麻之倉首比呂(たぎまのくらびとひろ)、当麻は姓、〈大和の国葛下の郡なる当麻より出たる姓なるべし、〉倉首(○○)は尸(かばね)なり、久良毘登(くらびと)と訓べし、〈複(かさねたる)姓には非ず、くらのおびとと訓〈む〉は非なり、〉此〈の〉尸(かばね)の例は、天武紀に次田〈の〉倉人椹足(くらびとむくたり)、続紀二に春日〈の〉倉首老(くらびとおゆ)、〈万葉一にも見ゆ〉十一に河内〈の〉蔵人首麻呂(くらびとおびとまろ)、廿七に春日〈の〉蔵毘登(くらびと)常麻呂、廿九に白鳥〈の〉椋人広(くらびとひろ)、卅に秦〈の〉倉人(くらびと)些主(あたぬし)、万葉十九に高安〈の〉倉人(くらびと)種麻呂など見え、姓氏録にも池〈の〉上(べ)〈の〉椋人(くらびと)、河原〈の〉蔵人、日置〈の〉倉人などあり、〈字はいろいろに書たれども、皆同じ尸なり、〉首お毘登(ひと)と訓〈む〉は、淤(お)お省きたるにて、意は淤毘登(おびと)の意なり、〈此の尸、凡て人と書たるも、皆首(おびと)の意なり、さて首お昆登と雲て、人とも書たる例は天武紀に忌部の首子首(こびと)、又三輪の君子首(こびと)などお、子人(こびと)とも書たり、又続紀卅に、以去天平宝字九歳改首史(おびとふびと)如並為毘登(ひと)、彼此難分、氏族混雑、於事不穏、宜従本字とある、是も首お毘登と雲る例なり、さて右の文に九歳とあるは、五歳の誤なり、天平宝字五年より此の時までは首(おびと)の尸も、史(ふびと)の尸も、毘登と記せり、〉さて此〈の〉倉首(くらびと)と雲尸は、もと倉の事に仕奉れるより起れり、其起り古語拾遺に見えたり、