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古事記伝
三十三
吉師は伎師(きし)と読べし、次の和邇吉師も同じ、〈然るお、延佳本に、吉おば上へ属て、師おみふみよみ(○○○○○)と訓るは非ず、凡て某師と雲称は例なきことなり、〉書紀に、吉士(きし)某、また某吉士某、など雲る名多し〈そおまれに吉師とも書り〉是なり、此はもと新羅国の官、十七等の中の第十四お、吉士と雲よし、漢籍〈北史〉に見えたれば、皇国にても、其お取て蕃人の品に用ひられたりと見えて、継体巻に、吉士老、敏達巻に、吉士金子、吉士木蓮子(いたひ)、吉士訳語彦(おさひこ)、また安康巻に、難波吉士日香蚊(ひかヽ)、雄略巻に日鷹吉士堅磐固安銭、難波吉士赤目子など、なほ巻巻に多く見えたり、〈其居地お以て、某吉士と雲るなり、さて後には、やがて姓尸となれり、と見ゆるもあり、〉さて此吉士と雲者の事お記せるお考るに、或は韓国に遣す使、或は韓人の朝(ま井)れるお接待(あへしら)ふ事など、凡て藩国の事に仕奉れり、是お以て思に、もと韓国より帰化居(ま井り井)る者お、此品になし賜ひて、子孫も其職お継(つげ)りと見ゆ、此阿知吉師、和邇吉師も、其類なり、〈但し、此人々、書紀には吉士と見えざるお思ふに、此御世にはいまだ吉師と雲称は無がりけむお、後にがの吉士と雲しのにならひて、此人々おもおして吉師と語り伝へたるにやあらむ、此時は、いまだ新羅の官名お取用ひらるヽことなどあるまじければなり、されど此はいかヾありけむ、今決めがたし 、〉