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古事記伝
三十三
義慈王の子、豊璋と禅広と二人、皇国に参入居たりしお、豊琴おば、国に還されて雲々せられ、禅広は皇国に留れるお、持統天皇の御世に百済王と雲号お賜ひてより、其子孫これお相継て、姓尸となりて、百済は姓にして、王は尸なり、許爾伎志(こにきし)と訓べし.意富伎美(おほきみ)と訓は、いみじき非なり、さて右の二人お、書紀に、金豊璋、余禅広ともある、余は、彼国王の姓なり、又善光とあるは、禅広と同きか別なるか、詳ならず、さて禅広が子昌成、其子良虞、南典、良虞が子敬福、此外も百済王某と雲る人、世々の史に多く出たるは、皆此氏人にして、何も房も官位お賜はりて、全ら皇朝の諸臣の列なりき、此氏今京に至てもありて、姓氏録右京諸蕃に載れり、河内国交野郡に此氏の居止とて今もありとぞ、其処に百済寺と雲もあり、西宮記に、百済王お、交野検挍と雲になされしことも見えたり、