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古事記伝
三十
からぶみ北史、又杜右通典などに、百済王号於羅瑕(おらか)、百姓呼為犍吉支(こむきし)夏言並王也と雲り、今書紀お考るにも、こにきし(○○○○)、こきし(○○○)と訓お附たるは百済王のみにして.新羅高麗などの王には訓お附ず、然れば此は百済王に局れる称にぞあらけむ、さて朝鮮国の三国史記と雲物に、新羅の世々の王お記したるお見るに、始のほどのは皆某局師今とあるお東国通鑑ご雲物には皆改めて某王と記せり、然れば新羅王の号は尼師今(にしこむ)と雲しなるべし、然れども此号は書紀の私記、又釈、又今本の訓などにも見えたることなければ、今たやすく用ふべきに非ず、故姑百済王の号お取て訓るなり、垂仁巻に任那王、新羅王子など訓る列もなきには非ればなり、さて又書紀釈に、王后(こにおる)、太子(こにせしむ)、私記曰、古爾於留(こにおる)、又古爾世之(こにせし)、並に百済の語也と雲り、此私記の文は、世之(せし)の下に牟(む)字脱たるなるべし書紀今本の訓、太后に斤於洗(こむおる)、こむおる(○○○○)、こにおる(○○○○)、王后にもこにおる(○○○○)、太子にこにせしむ、こむせしむなど附たり、こに(○○)もこむ(○○)とも雲は、王に就たる号と聞ゆ、王子にはせしむ(○○○)と附たり、又大夫人に、はしかし(○○○○)、夫人にはしかし(○○○○)とも、おりけ(○○○)とも、おりく(○○○)とも附たり、その中に高麗のお雲るもあり、北史、百済伝に、王妻号於陸(おりく)、夏言〈の〉妃也と雲るに依らば、おたけ(○○○)とあるは、く(○)おけ(○)に誤れるにや、さて叉百済国主お、にりむ(○○○)と訓る、往々あり、其外にも異なる訓ども見えたれども、写誤などもありと見えて、さだかならず、又雄略巻に百済の弟の名に、軍君と雲あるお、こにきし(○○○○)、又こむきし(○○○○)と訓、細註に崑支君也としるし、百済新撰と雲書お引たるにも琨支君とあり、王号と同じきはまぎらはし、同巻に、昆支王と雲名も見えたり、抑三国の中に、百済のみ其国言の号どもの彼此伝はれるは、百済は中にも殊に親しく奉仕れる故なるべし、