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古事記伝
三十三
手人(てひと)は、諸本並(みな)人手と作(かけ)れども、其は下上に写誤れること次(うつな)けれぼ、今改めつ、〈師(賀茂の真淵)は人手と作(あ)るまヽにて、氐毘登(てびと)と訓れしかど、てびとお、人手と書べき由もなく、又さる書さまは、此の記の例に非ず、〉書紀雄略〈の〉巻に、吉備〈の〉臣弟君、還自百済、献漢手人部(あやのてびと)衣縫部(きぬぬひ)宍人部(しゝびと)、また百済所献手末才伎(よりたてまつれるたなすえのてびと)、また西漢才伎(かふちのあやのてびと)、また百済所(より)献今来才伎(れるいまきのてびと)、仁賢〈の〉巻に、遣日鷹〈の〉吉士、使高麗、召巧手者(てびと)、また日鷹〈の〉吉士、還自高麗、献工匠須流枳奴流枳(てびとするきぬるき)等、今〈の〉倭〈の〉国山辺〈の〉郡額田〈の〉村〈の〉熟皮(かはおし).高麗是其後也、など見ゆ、職員令内蔵〈の〉寮〈の〉下に、典履二人、掌縫作靴履鞍具、乃検挍百済〈の〉手部、百済〈の〉手部十人、掌雑縫作〈の〉事、大蔵〈の〉省〈の〉下にもかく見えたる、〈共に事の字は、革の誤か、又事の上に、革の字脱(おち)たるか、〉手部も、氐毘登(てびと)と訓べし、手人は、諸の物作る工(ひと)お雲称(な)なり、〈今俗(よ)に職人と雲物なり〉内蔵寮式に、雑〈の〉作手造御櫛手二人、来纈手二人、臘纈手二人、暈繝手二人、造油絁手二人、織席手一人、また染手五人などある手も、みな手人の意なり、さて此(こヽ)は、韓鍛冶(からかぬち)と呉服(くれはとり)とお指ていへり、