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塩尻
二十七
一或問、久松氏は、菅家苗裔にして、尾州知多郡阿古屋の邑の産、久松弾正左衛門道定の孫なり、今源氏お称す、是は久松因幡守康元等、大神君〈○徳川家康〉の異父弟なりし故、源の姓お称するか、予曰、不然、道定の玄孫左京進定氏男子なし、故に一色満貞の二男お以て其女に配し、家お続しめ、一色左衛門尉詮定と号す、其子範勝、又久松民部大輔と称せし、康元は詮定の七世佐渡守定俊子也、然ども詮定以来、実に清和源氏なる者なり、又奥平氏は、児玉党にして平氏なりと聞ゆ、然るに是も源氏お称するは、彼祖赤松則景の二男氏行、母方の族児玉左衛門尉某が養子となりて、其末流上州奥平郷に住せしより、平氏と称し、奥平と号す、然れども本姓は源氏なり、又佐竹修理大夫義隆は、岩城定隆の男なり、然れば今の佐竹は平氏なるべしと雲、定隆は従三位左中将義宣の弟にして、岩城の養子となれり、然れば義隆本姓平氏に非ず、
是等の類多し、能々系図お改むべし、