[p.0285][p.0286][p.0287]
古史微
一夏
教〈へ〉子なる西原朝樹が雲るは、皇国人の神世より姓族お重みしける事は、他に対ひて名告(なのり)するに、吾者某命之子、某命之手某とやうに長々と名告り、中昔の軍籍物語書などにも、多くかく状に告れる由お記し、其余古き書どもにも、人の上につける一事のいさヽけ事お記すにも、まづ姓尸お厳重に記せるは、皇国人は素より姓系お大切にし、出自お重みしける習にて、漢国人の此事に麤略なるとは異なりと雲るは、然る言なるに就て、なほ思ふに、漢国も要(むね)々しき書等には、姓系お重みすべき物なる由お賢(かしこ)げに教へ誨(さと)したるも有れど、たヾ其理おこそ事々しく論(い)へれ、素より王の系統さへ定まらず、上古より然しも姓系お重みする論に及ばざる国なるお、次々に王統かはりて、其かはるごとに、戎人の心ながらに、然すがにその出自の鄙賤お恥らひて、古く聞え高き者どもの名お探ね、巧み偽りて己が祖となし、彼名高かりし唐と雲し世に、老耽お祖に立たるなどは、殊に甚おかしくぞ所思ゆる、此事かの国籍にも笑ひ記せる中に、五雑視俎といふ籍に、与其遠攀華冑、牽合附会、熟若闕所不知、以俟後之人、故家譜之法、宜載其知者、而闕其疑者。漢高祖、其祖第呼豊公、名字不伝也、蓋尚有古之遺意焉と謂へるは、実(げに)然る言なりけり、王とある者すら斯在(かヽり)しかば、況て末々に至りでは、系統お重みするなど雲ことは、然しも聞えざるに、古く投化参来れる蕃人どもの、某帝若干世孫、某王若干世孫など名告り来つる中にも、皇国の系統お重みする国風なる由お遠音にきヽて、皇国風にへつらひ欺けるには非かと疑ひ無にしも非ず、彼国人も、心あるきはヽ、系統乱がはしく、氏族お重みせざる国風お心に歎たる事は宋太宗と雲ける王が、皇朝の御系統の無窮に伝はらせ賜ふ由お聞て、歎息きて、世祚遐久、其臣亦継襲不絶、此蓋古之道也と雲て、羨み奉れる、また彼五雑俎に夷狄之中、極重氏族、如契丹、唯耶律氏与蕭氏、世々為昏姻、天竺則以刹利婆羅門二姓為貴種、其余皆為庶、庶姓雖有功、亦甘居大姓之下、其他諸国、莫不如是、故唐以後之重門地、亦跖抜氏唱之也、礼失而求之四夷、殆謂是耶、と雲るおも思ひ合すべし、さて諸蕃人の子孫ども、弥益々に皇国風に化て、終には天之御中主神お始祖に標し、漢高祖命など皇国風に称たるは、浅ましく可笑(おかし)き事には有れど、怜むべき事にこそ、〈○中略〉さて今かく古学の行はれて、其お学ぶ人の中に、其遠祖の蕃種なることお自鄙み恥て、神別皇別の貴姓お羨み称る徒もありと聞ゆれども、此は真の道の本お思はざる非事なり、然るは諸蕃の人の投化参来つる事の本は、韓神の蕃招(からおき)し給ふ御心と、常世の国々の事執り坐ます大名牟遅、少名牟遅神の御心にて、皇国に帰せ賜はでは得有らぬ幽(ふか)き契の有て、帰せ賜へるご所思(おぼ)ゆれば、其鄙しき国お放ちて、皇国人と成し賜へる恩頼お辱なみ貴み、よく其出自お守り、神の御国に忠ならむことお思ふべき事なるに、何のみづから恥らひ卑(いやし)むる事のあらむ、殊に私に先祖お替る所為にて、道お学ぶ者の心ともおぼえず、幽冥の可畏き謂お弁へざる僻事なりかし、仮令人わろく女々しからむも、吾お生成たらむ親の替べからぬと同じ理なるおや、然れど此は非事の中にも、やごとなき真心の憐むべきかたも有お、今かく学問の道の開たる世にも、なほ心おそく漢好する徒ありて、丹波氏なる人の、私に劉氏お称(なの)りなどする人も有と聞ゆるは、劉氏お何ばかりの貴姓と思ふらむ、高祖劉邦だ雲るは、もと泗上の亭長にて、父祖は名もなき賤者なるものおや、然るお丹波氏お賜へる事は、本の賤しき蕃の汚穢お禊ぎ祓ひ賜ふと雲べき、身にも余れる大御恵なるお、神と皇との然る恩頼お思はず、其先祖に賜へる姓お己が心とうち止て、いやしく穢き本国の姓に復るわざにて、勅に違ひ、先祖の心に背きて、名お乱る所為とこそ所思(おぼ)ゆれ、然る人はさも思はねばこそ、痛(あな)かしこ、