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伊予国巡廻記

安知生村 〈新居郡神戸郷氷見組〉
庄屋隠居
菅五郎兵衛
今の庄屋長右衛門が父なり、いとけなき時より読書お好み、周敷村の平太〈吉本氏〉と雲儒者に従ひ、闇斎派の道学お受、平太は、大洲の城主より礼遇厚く、度々迎られて其府にゆくに、〈平太大洲にて用られし事、周敷村の条下に出、〉五郎兵衛も毎に随行す、長ずるに及て、聞斎学に不安、京都に遊びて、皆川文蔵、佐野少進等お師とす、少進薦めて菅家内塾の都講(かくとう)とす、〈御医師山名修軒、五郎兵衛と同時に京にあり、前にしるせるは、修軒が話おしるせるなり、〉高辻大納言胤長公も、五郎兵衛およく遇せられ、薨ずるに及て遺物お分たる、〈自筆竹亭夏日の詩、並唐法帖等、〉雑掌川瀬図書、近藤兵部が贈状目録等あり、〈○中略〉皆伝へて其家にあり、五郎兵衛、のち家に帰り、庄屋役お勤る事二十余年、隠居して御城下町にゆき教授す、文政十二丑八月十三日、左之通被仰付、
安知生村庄屋長左衛門親
五郎兵衛
年来志篤儒学致修業候段相達候、依之其身一代限苗字帯刀被成御免(○○○○○○○○○○○)、三人扶持被下置候、折々学問所〈江〉罷出、御用筋可相勤なり、
五郎兵衛、わかき時、放達にして名教に不拘、是お以て世の謗お得たり、然れ共、親に事て孝、母の喪に遭て居喪私書の著述あり、文章お好み、皇朝の学にも、其大略に通ず、田畝の中より、斯る人出る事希なり、因て表して周敷村の平太、土居村の信之等が如く、この編集の内に入、