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完永諸家系譜伝

完永諸家系図伝序
本朝諸家の系図、世に伝はる事久し、鹿苑院殿〈○足利義満〉の時に、大納言藤原公定うけたまはりて、分脈図おえらび、嫡子庶子の本末おわけて世におこなふといへどもなおいまだつまびらかならず、完永十八年二月七日、将軍家、〈○徳川家光〉あらたに台命おくだしたまひて、諸家の系図おあつめあましむ、資宗これお奉行す、民部卿法印道春これにそふて、そのあむべきおもむきおしめす、こヽにおひて諸大小名御譜代御近習御番衆等、およそ恩禄おかうふるもの、大小となく、みな其家譜おさヽぐるもの数千人なり、道春および予春斎、件の家譜おみて其真偽おわきまへ、其新旧おただす、且又仰によりて漢字仮字両字おつくらしむ、其事繁多なるゆへに、十九年三月十日、かさねで台命くだりて、僧録金地院元良長老、尾州の法眼正意、水戸の書生卜幽了的、おなじく其事にあづかる、高野山見樹院立詮お乞ひ、御右筆大橋重政、小嶋重俊、倭字の事にあづかる、且又京都五岳の僧侶十七人おめして、江戸にきたらしむ、こヽにおひて、諸家の系譜おわかちくばる、道春春斎は、清和源氏の部おつかさどる、立詮これに属す、元良および五岳衆は、藤原氏の部おつかさどる、重政これに属す、正意は、諸氏の部おえらび、水戸の書生は、平氏の部おあむ、重俊これに属す、其外草案おつくり、浄書にあづかるもの数十人におよべり、年お経て全編おなす、其系譜にくはしきあり、あら〳〵しきある事は、おの〳〵献ずる所の家本長短あるによりてなり、漢字倭字、都合三百七十二巻、其名お題して完永諸家系図伝といふ、かくのごときの大部なる事、本朝のむかしより、いまだきかざるところ也、誠に太平御一統の御時にあらずば、いかでかこヽにいたらんや、諸家其官禄おしる時は、御恩のあつき事おわすれず、其勲功おのする時は、先祖のつとめおおもふべく、しかれば忠孝の道、無窮の徳とともに、千万世の後まで、たれかあふぎたてまつらざらんや、
完永二十年癸未九月吉日 従五位下太田備中守源資宗〈○又見羅山文集〉