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保元物語

官軍方々手分事
基盛、大和路お南へ発向するに、法性寺の一の橋の辺にて、馬上十騎計、直甲にて物具したる兵、上下二十余人、都へ打てぞ上りける、基盛、是は何れの国より何方へ参する人ぞと問ければ、此程京中物匆の由承る間、其子細お承らんとて、近国に候者の上洛仕るにて候と答、基盛、打向て申けるは、一院〈○白河〉崩御の後、武士共入洛の由、叡聞に及ぶ問、関々おかために罷向ふ也、内裏へ参入ならば、宣旨の御使に打連て参じ給へ、不然ばえこそ通し申まじけれ、角申は桓武天皇十代の御末、刑部卿忠盛が孫、安芸守清盛が次男、安芸判官基盛、生年十七歳とぞ名乗たる、大将と思敷者の、〈○中略〉身不肖に候へ共、如形、系図(○○)なきにしも候はず、清和天皇九代の御末、六孫王七代末孫、摂津守頼光が舎弟、大和守頼信が四代後胤、中務丞頼治が孫、下野権守親弘が子に、宇野七郎源親治とて、大和国奥郡に久住して、未武勇の名お落さず、左大臣殿〈○藤原頼長〉の召に依て、新院〈○崇徳〉の御方に参也、源氏は二人の主とる事なければ、宣旨なりともえこそ内裏へは参るまじけれとて、打過ければ、〈○下略〉