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平治物語

待賢門軍附信頼落事
左衛門佐重盛、五百余騎おぱ大宮面に残し置、五百余騎にて押寄て呼り給けるは、此門の大将軍は信頼卿と見るは僻目歟、角申は桓武天皇苗裔、太宰大弐清盛が嫡子、左衛門佐重盛、生年二十三卜名乗懸ければ、信頼返事にも不及、それ防げ侍共とて引退く、大将の引給間、防侍一人もなし、我先にと逃ければ、重盛禰勇みて、大庭の椋木許迄責付たり、義朝是お見て、悪源太はなきか、信頼卜雲大億病人が待賢門お早被破つるぞや、あの敵追出せと宣ければ、承候とて被懸けり、続兵には鎌田兵衛、〈○中略〉已上十七騎、轡お双べて馳向、大音声お揚て、此手の大将は誰人ぞ、名乗れ聞かん、角申は清和天皇九代後胤、左馬頭義朝嫡子、鎌倉悪源太義平と申者也、生年十五歳、武蔵大蔵の軍の大将として、伯父帯刀先生義賢お討しより以来、度々の合戦に一度も不覚の名おとらず、年積て十九歳、見参せんとて、五百騎の真中へ割て入、西より東へ追まくり、北より南へ追廻し、竪様横様、十文字に敵お颯と蹴散して、〈○下略〉