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源平盛衰記
二十七
信濃横田川原軍事
上野国住人西七郎広助は、火威の鎧に白星の甲著て、白葦毛の馬の太く逞に、自伏輪の鞍置て乗たりけり、同国高山の者共が、笠原平五に多討れたる事お安からず思て、五十騎の勢にて河お渡して磬へたり、敵の陣より十三騎にて進出づ、大将軍は、赤地の錦の鎧直垂に、黒糸威の鎧に鍬形打たる甲著て、連銭葦毛の馬に金覆衛輪の鞍置て乗たりけり、主は不知、よき敵と思ければ、西七郎、二段計に歩せより、和君は誰ぞ、信濃国住人富部三郎家俊、問は誰ぞ、上野国住人西七郎広助、音にも聞らん、目にも見よ、昔朱雀院御宇、承平に将門お討平て勧賞お蒙りたりし、俵藤太秀郷が八代の末葉、高山党に西七郎広助とは我事也、家俊ならば引退け、合ぬ敵と嫌たり、富部三郎申けるは、和君は軍のあれかし、氏文読まんと思けるか、家俊が祖父下総左衛門大夫正弘は、鳥羽院の北面也、子息左衛門大夫家弘は、保元の乱に、讃岐院に被召て、仙洞お守護し奉き、但御方の軍さ破て、父正弘は陸奥国へ被流、子息家弘は奉被伐けれども、源平の兵の数に嫌れず、正弘が子に布施三郎惟俊、其子に富部三郎家俊、合や合ずや組で見よとて、十三騎、轡並ておめきて蒐、〈○下略〉