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鎌倉大草紙
憲実〈○上杉、中略、〉其後船にて西国へ赴、周防国へ行脚あり、援にそのころ、中国の大内殿、威勢お中国九州までふるひける、都には武衛細川畠山の三家ともに末になり、其家いづれもにつにわかれ合戦あり、一人して天下の御後見も難協、大内は大名にて威勢もありければ、天下の御後見お望、一度都にのぼり、公方の執事とあふがれ、政道お輔佐せん事願ひけれども、三家の外は執事の例もなし、かなふまじとて、多年望お空して過しける時、憲実入道此所へ来りけるこそ幸なれと、大に喜て、憲実入道お雲洞菴〈○菴一本作院〉高岩長棟菴主と称し、長門国深川大寧寺と申会下寺にうつしおき、馳走渇仰して、則大内殿は、憲実の養子になり、上杉山の内の系図お継、篠の丸にまひ雀の幕の紋お請て、憲実お御父とて崇敬限りなし、其後大内殿、都へ上り、上杉は関東管領の家なれば、それおつぎて、京都の執事職も子細有まじきよし申上ければ、公方よりも禁中へ奏聞ありければ、猶其寄ありと御免ありて、大内左京大夫義興、初て上杉より請て京管領に任ぜられ、御後見、望のごとく協ひける、