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塵添壒嚢抄

慇馭廬嶋事(おのごろしまの)〈附秋津嶋事、蜻蛉事、野馬台事、野馬台文事、宝誌和尚入滅年記事、倭面国事、東海姫氏国事、○中略〉
本朝、我朝、目域、野馬台(やばだい)なんども申めり、但野馬台〈は〉、唐より名くる名也、日本〈の〉和訓お音お借て申せる也、まとばとは同響にて通〈じ〉麼(ま)〈の〉字お麼(ば)ともよむ也、喩へば雨お下(あ)米と雲、硯蘇松利(おすヾり)なんど雲類ひ多く侍るにや、或は日本〈お〉法度無き国也、馬野(の)に放たるが如しとて、野馬台と名付く共雲ふ、此義信ぜざれ共、何〈け〉篇にも唐しより申出せる名なり、吉備大臣の唐にて読給けん文お野鳥台と雲.日本〈の〉成行べき未の事〈お〉雲る也、然れば国の名とは覚たり、是は宝誌和尚とて、権化の人の作られける文也、此和尚〈の〉円寂〈は〉、蕭梁天 〓十三年〈甲午〉歳也、我朝には継体天皇八年〈甲午〉当る、然〈は〉此文〈お〉吉備大臣〈こ〉読〈せ〉奉らん為〈に〉、其(に)時作ると雲は大なる誤り也、長谷寺縁起等にも其由載たり、此〈は〉事唐〈には〉玄宗皇帝開元二十二年〈甲戌〉也、本朝には聖式天皇天平六年に当れり、既〈に〉彼和尚入滅以後二百十余年〈の〉後也、大に違へり、若其時如今〈の〉読悪(にく)き様に書成しけるにや、又野馬 堕共書けり、又倭奴国共倭面国共、東海姫氏国共、扶桑国共雲は、是皆唐より雲へる名共也、〈○中略〉東海姫氏国と申は、天照大神御末のみ世知(お)食すと雲心にや、