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西山遺聞

本朝通鑑御論の事
一厳有公〈○徳川家綱〉の御治世、〈年月忘れたり、慥に聞合すべし、〉西山公、〈○徳川光国〉宰相中将にも任じたまひける頃、尾州侯〈光友卿〉紀州侯〈光貞卿〉と共に、朔日〈年月可尋〉御登城まし〳〵、御対面御よろこび申おはりて、御休所に退きたまひたる時、執政のいはく、本朝通鑑全部おもたせ参られて、此書成功し侍まヽ、梓行の命お下すべきよしの御事につけて、各位へ知らせ奉るべきとの上意にさぶらふと申されければ、おの〳〵珍重のよし御しきだい有けり、とばかりして、西山公、一二巻お電覧ましましたれば、本朝の始祖は、呉の太伯の胤なるよし書たるにおどろきたまひて、そも〳〵これはいかなる狂惑の作為ぞや、後漢書以下に、日本お姫姓のよししるしたるは、往昔吾国亡命のもの、あるは文盲の輩など、かしこに渡りて杜撰の物語せしお、彼方のものは、まことにさなむと意得て、書伝へたるなり、吾国にはおのづから日本紀古事記等の正文あり、それにそむきて、外策志伝によりて、神皇の統おけがさんとす、甚かなしむべし、むかし後醍醐帝の御時にや、魔僧ありて、此流の説お害しおも禁制まし〳〵て、其書お焚すてられしとかや承る、かの厩戸皇子の頃は、学問未熟にありしすら、日出処天子、日没処皇帝と書て、同等に抗衡せられしぞかし、呉の太伯の裔といはヾ、神州の大宝、長く外国の附庸おまぬかれがたからん、されば此書は、吾国の醜お万代に残すといふべし、はやく林氏に命じて、此魔説お削り、正史のまヽに改正せらるべし、さは侍らぬかとのたまへば、尾紀の両君もうなづかせたまひ、執事の人々も、御確論に伏せられて、梓行おとヾめられ侍りぬ、