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大系図評判遮中抄
六角佐々木末流 建部賢明撰
凡大系国〈卌巻〉は、佐々木の姦賊六角中務氏郷が古伝に偽補する所也、蓋此者は、本近江国にて、種姓も知ざる凡下の土民也、父は沢田喜石衛門とて、〈○中略〉万づ才覚有ければ後に忍〈○武蔵〉の県令と成さる、是より先き本国に在し時、同邑の百姓和田勘兵衛が娘に成といへる女お娶て子お生ず、其名お喜太郎と雲ふ、下種の子たりといへども、容貌自然に優なりしかば、稚より是お青蓮院尊純法親王に奉て禿童となる、〈○中略〉山伏の姿と成て、偽て諱の字お賜れりと雲て、名お尊覚と号す、父甚だ是お責て、速に其名お改めしむ、是に於て還俗して沢田源内と号し、〈○中略〉己れが才智お以て卑賤お蔽ひ隠し、貴族と号して身お立んと欲し、窃に六角佐々木の正統と称し、名お近江右衛門義綱と改め、偽て定頼朝臣の長子に大膳大夫義実卜雲ふ名お作り、其子修理大夫義秀、其子右兵衛督義郷三世お、新に佐々木の系中に建て己が父祖とし、義賢朝臣〈承禎〉おして、義秀が後見なりとす、〈○中略〉承応二年比、源内江府に来て、佐々木正統、近江右衛門義綱と名乗り、中山市正信正に属して、水戸侯頼房卿に奉仕せん事お請ひ、彼の偽譜お献ず、卿即ち東叡山宿坊の吉祥院の沙門某お以て、其系図お真の六角正嫡、佐々木源兵衛尉義忠に賜て虚実お御尋有けるに、悉く偽作の姦操たる由被申しに依て、其姦曲忽に顕はるヽのみならず、義忠又正統お乱す事お怒て、其酋本多美濃守忠相お以て、具に此事お上に啓し、彼れが身お賜て禁遏お加ふべき由、久世大和守広之に訴へ申されければ、狼狽して夜中に江州に逃上り、名お六角兵部氏郷と改め、暫くは世の変お窺居けるが、遠国にしてさのみ咎る人も無かりければ、猶も姦謀未だ止まず、〈○中略〉猶其矯お蔽ひ隠さんが為、昔将軍義満公の世、応永年中に、特進亜槐三台藤原公定卿の撰せられし尊卑分脈系図の中、要お摘て諸家大系図〈十四巻〉と号して世に行はるヽお本とし、佐々木家の譜中に、新に多くの名諱お偽作し、己れが本姓沢田氏、外祖和田氏、従弟の畑氏、及び此姦謀に与する者は、皆私に一流となし、又織田、朝倉、武田、豊臣の系中にも、彼虚名に忘説お書添へ、其余諸氏の家伝お拾ひ集めて、真偽おも正さず悉く書載せて、全部卅巻と作し、更に大系図と名づけて梓に鏤ばむ、此外倭論語、足利治乱記、浅井日記、異本関原軍記、異本勢州軍記等、皆彼れが一世に姦しく虚説お註する所なり、如此偽書世に流布して後、智ある人は更に是お信ぜずといへども、言お巧にして詐るが故、読む者半は惑はされて、実に其人〈義実、義秀、義郷、〉有と思へり、是に由て定頼朝臣の子孫は、皆庶流也と思ひ、或其家二つに分れたりと雲ふ、其外種々の誤説出来れり、〈○中略〉一年京都に於て、官職お矯り冒す輩おば悉く捕て死刑に処せられしかば、源内、大に驚き懼れ、忽に大輔の号お停て、深く其身お隠し、密に人の家譜お造て渡世の営とす、蓋世系の詳ならざる人は、彼れに賄して家伝お求るに、己れが小智お以て妄に名諱お偽作し、虚説お註して是に与る故、記す所多は正史実録に背く、若其事お二次議するに及んでは、前後相矛盾する事多し、乃余従弟同氏昌孝〈十郎左衛門〉在京の序に家伝お記さしめ、是お火災に失して再び書せしむるに、其事蹟、悉く相違せり、又幕下の士井戸甚助と雲ふ人も、始め家系お註せしめ、後に東海寺和尚其に拠て、又同譜お書せて是お試るに、其記す所、皆以て前と符合せず、如何となれば、己れが記憶の壮なるに任せて、写本お設けず、徒に虚記するに依て年月お隔る則は先に書する所お悉く遺忘するゆへんなり、如此諸人お誑かして、其口お粘ひ、遂に元禄戊辰年〈○元年〉に至て、七十歳にて病死す、