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公武大体略記
一武家
征夷大将軍源義政、御先祖は清和天皇の御孫経基の王おば六孫王と申き、彼経基の王、天徳五年六月十五日、源朝臣の姓お給はせ給ひき、其御子摂津守満仲おば、多田の満仲と号、其子左馬頭頼信、其子伊予守頼義、其子伊与守義家おば八幡太郎義家と号す、次男甲斐守義綱おば賀茂次郎と称し、三男義光おば新羅三郎と号して、各子孫あり、当代弓馬の道の御師範に参り侍る、小笠原、其外武田佐竹などは、皆新羅三郎の末葉なり、然るに義家の子に、義国、義康、義兼、義氏、泰氏、頼氏、家時、貞氏まで、九代お経て、貞氏の御息足利治部大輔尊氏等持院贈左大臣殿の御時、御世おしろしめされ、其御次征夷大将軍義詮おば宝篋院贈左大臣殿と申也、其御次太政大臣准三后義満公〈法名天山道義〉おば鹿園院殿と申奉りき、其御次内大臣義持公〈法名道詮〉おば勝定院殿贈大相国と申奉る、其御次征夷大将軍義量と申奉りしは、御世お早せさせ給ふて、内府に先立まいらせ給、長徳院殿と申侍る也、かくて去ぬる応永卅五年戊申正月十八日、義持将軍、御薨逝之間、青蓮院門跡にてまし〳〵けるが御還俗あり、普光院殿贈大相国義教公、〈法名善心道恵〉御猶子の儀にて御相続有て、其年の夏、年号お正長と改元せらる、又普光院殿の若君、征夷大将軍義勝と申奉るは、御年十歳と申侍りし、嘉吉三年癸亥七月廿一日にかくれさせ給ひて、慶雲院殿と申奉る、公方様御一腹の兄にて渡らせ給間、則御世お継せおはします、しかれば等持院殿より今七代に渡らせ給、又関東の主君に、等持院殿の御息、左兵衛督基氏瑞泉寺殿と申お下し参らせて、左兵衛督持氏長春院殿まで五世也、公方様の御先祖左馬頭義兼の御息、遠江守義純と申は、畠山の曩祖也、義純、泰国、時国、家国、義深、基国、長禅寺殿満家、真規寺殿持国、光孝寺殿義勝迄、九代也、義純舎弟近江守義胤は、桃井の始也、足利左馬助義継と申は、吉良の始也、上総介長氏は、今川の始、尾張守家氏は、斯波石橋のはじめ、次郎義顕は渋川の始、四郎頼氏は石塔の始、足利陸奥守泰氏の息、宮内卿律師公深は、一色の始也、公深、範氏、直氏、詮範、満範、義貫、義直迄、七世也、律師義弁は、上野の始、法印賢実は、小俣の始也、已上兄弟三人は出家なり、六郎基氏は、加子の始、以上七人は、左衛門佐泰氏の息也、亦新田、山名、里見等の先祖に、義重と申は、足利義兼の御伯父也、又仁木、細川の先祖に、足利矢田の判官代義清と申は、義兼の舎弟也、又新田総領大館次郎家氏と申は、新田大炊助義兼の曾孫なり、家氏より今大館兵庫頭教氏迄、六代歟、此外大井田、森、大島、竹林、牛沢、鳥山、堀口、一井、得川、世良田、江田、荒川、田中、戸賀島、岩松、吉見等、何も御当家の果葉也.
〓家格
搢紳家に、摂家清華等の称あり、所謂家格にして、即ち其家の等級なり、而して官位の昇進は、 家格の高下に随ふものなり、又武家の家格の如きは、官位部中、武家の項に散見せり、