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氏上は、一に氏長と雲ひ、又氏宗と称す、後に謂、ゆる氏長者にして、之おうぢのかみと雲ひ、うぢのおさと雲ひ、旧くは又うぢのこのかみとも雲へり、即ち氏中の宗長にして、常に其同族お率いて朝家に奉仕し、専ら祖神の祭祀、氏人の叙爵等お掌る、
天智天皇の朝、宣して氏上等の事お定め、其大氏の氏上には大刀お賜ひ、小氏の氏上には、小刀お賜ひ、伴造等の氏上には楯弓矢お賜はしむ、事は載せて日本書紀に在り、是れ氏上の国史に見えたる始めなり、然れども中臣系図に載する所の延喜本系帳には、欽明天皇の時、既に常盤大連お以て氏上と称せしことあれば、其由て来る所も亦甚だ遠きお知るべし、天武天皇の朝、勅して天下の万姓お改め、分ちて八等と為し、各ゞ賜ふに大小刀お以てし、以て大小氏上の別お明にし、又百寮に詔して、正月の節、特に氏上お拝することお得しむ、氏上お待遇するの法、始めて是に見ゆ、
大宝の制、凡そ氏宗の継嗣は必ず勅お待て後定めしめしが、特に藤原氏、世々政権お握るに及びては、摂関たるもの、常に宣旨お待たずして氏長者と称し、私に氏印お授受せしかば、遂に近衛天皇の朝に至り、藤原忠実、其子忠通の氏長者お奪ひて、之お其次子頼長に与へ、以て天下の大乱お醸せり、此時に当りて、古に謂ゆる諸氏の長者なるもの漸く衰替して、其存するもの僅に十の一二に過ぎず、名家右族の中には、或は其名お有するものあくと雖も、而も甚だ顕はれず、是お以て其氏爵の如き、王氏は第一親王に依り、橘氏は藤原氏に頼り、才に薦挙に預ることお得るのみ、而して之お薦挙するものお氏の是定卜称す、是定とは、氏人の叙爵お定むるものヽ称なるが如し、然れども二氏の外、所見なきお以て、未だ其義お詳にするお得ず、鎌倉幕府の頃、諸氏猶ほ氏長者と称するものありしが、足利氏の時に及びては、殆んど其跡お絶ち、隻僅に藤原氏の摂関たるものと、源氏の征夷将軍たるものとのみ之お称せしが、徳川氏お経て、明治の維新に際し、二職の停廃と共に、永く其名お絶つに至れり、