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姓序考
氏上
氏上は、姓にかヽはれることならねど、是おいはざれば、ことのきこえがたきことヾものあれば、さし置がたくして其由お雲り、氏上は、宇遅乃賀美(うぢのかみ)と訓べし、氏とは源平藤原秦などのたぐひのものお雲り、其氏に大氏小氏のけぢめあり、そお雲は、阿倍氏〈孝元天皇皇子大彦命之後〉は大氏なり、是より別れたる阿倍志斐、阿倍間人、阿倍長田、阿部陸奥、阿倍安積、阿部信夫、安部柴田、安部会津、安倍猿島、阿倍久努、阿倍小殿、和爾部等はみな小氏なり、〈○中略〉小氏は大氏にしたがへるもの也、されど小氏にも氏上はあなり、大氏衰へぬれば、小氏のさるべき人お以て大氏お継ことあり、大同元年春正月壬午、左京人正七位上阿部小殿朝臣真直、従五位下阿倍小殿朝臣真出等、賜姓阿倍朝臣とみえしは、阿倍小殿氏より大氏の阿倍になれる也、又弘仁三年二月辛亥、左京人阿倍長田朝臣節麻呂、従七位上阿倍長田朝臣高継等八人、賜姓阿倍朝臣とあるも同例なり、俗言に雲は、大氏は本家、小氏は分家なり、阿倍の大氏は、大同のころは衰へたれど、氏人に、家守、東人、小笠、象主、弟当、宅麻呂、犬養、真勝、益成、鷹野、兄雄等〈是には父子兄弟もあるべけれど〉十余人あるに、真直高継等の十人お加へられしにて、外のの氏人はいと多かりしお思へ、是になずらへて小氏にも十、二十の人はありしなるべし、其下にまた部曲の人あり、是には姓はなく、たヾ阿倍某といへるのみなり、其趣おいはんに、部曲の阿倍長田某と雲人々お、みな阿倍長田朝臣某と雲人、氏上なれば管領り、大氏の阿倍朝臣某と雲人、〈大氏の〉氏上なるには、阿倍某といへる部曲の人々、其外小氏〈阿倍長田のごとき〉氏上よりして、各部までおも統領ることなり、少故の事は、小氏の氏上、大氏の氏上とはかりて、ことおたヾしおさめ、大故のことにあらざれば、朝廷にまおすことなし、さるから上古は朝廷は閑寂なりし、各国も諸氏の人々頒領り、天皇の御料地の御田おも作り、〈今諸国に、御田三田など雲号のあるは、みな御料地なり、〉男は弓弭、女は手末の貢お進れり、然るに天武朝廷四年二月己丑、詔曰、甲子年、諸氏被給部曲者、自今以後除之などみえて、つぎつぎに諸氏の部曲お除て公民とせられしから、朝廷はいとこと多くなりゆかせ給へる、さて大氏小氏のことは、天智朝廷三年春二月己卯朔丁亥、天皇命皇大弟、宣増換冠倍位階名、及氏上民部家部等事雲々、其大氏之氏上賜大刀、小氏之氏上賜小刀、〈○中略〉こヽに大氏小氏のけぢめ正しくみえたり、又持統朝廷四年四月丁未朔庚申の詔に、以其善最功能、氏姓大小、量授冠位とあるは、氏の大小お雲れし也、氏上はことに重きものにせられしことは、天武朝廷八年春正月壬午朔戊子、詔曰、凡当正月之節、諸王諸臣、及百寮者、除兄姉以上親、及己氏長以外莫拝焉、又文武紀第一に、丁酉年閏十二月庚申、禁正月往来、行拝賀之礼、依浄御原朝廷〈○天武〉制決罰之、但聴拝祖兄及氏上者、〈と見えしにて、天武紀に氏長といへるは、氏上とひとつなることお知れ、〉如此重きものにせられたれど、混乱たることもありしにや、天武朝廷十年九月丁酉朔甲辰、詔曰、凡諸氏有氏上、未定者、各定氏上、而申送于理官、十一年十二月庚申朔壬戌、詔曰、諸氏人等、各定可氏上者而申送、亦其眷族多在者、則分定氏上、並申送於官司、然後斟酌其形而処分之、因承官制、唯因少故、而非己族者、輒莫附とみえたれば、こヽに正しく改糺給へるならん、眷族多在者、則分定氏上とあるは、阿倍氏物部氏の如く、分家の多き氏々にて、これぞ大氏小氏のけぢめならめ、〈○中略〉さてこの氏上といふものぞ、後の氏長者なりける、〈○註略〉如此氏上の定れるから、各氏のすぢみだるヽことなく、氏人のこと〴〵、小氏大氏に附貫せれば、大氏の氏上に詔あれば、氏人どもみなうけ給はり伝へて、其事おなすなべに、ことヽほりやすくみだるヽことなし、故太古はなすこと少くて、よくことのとヽのひし也、さはいへど氏上、又氏人の威稜、つぎ〳〵に 強大なりて、大命にたがひぬることヾもの出来しかば、部曲氏人お除れし、部曲氏人お除れても.猶氏上のことは後世までも伝はれり、されど其本源のお〈○のお間恐有誤脱〉うしなひしかば、氏上の人の氏人お統領せることもうせしなるべし、さて氏上は職位あるものヽうけもたるものにもあらず、かならす其系統お尊みぬるにや、文武紀第一に、戊戌年九月戊午朔、以無冠麻績豊足為氏上、無冠大贄為助、進広四服部連左射為氏上、無冠功子為助とあるにて知るべし、〈○註略〉故氏上は、太古治道の基にて、是にあらざれば、治道の趣知り難し、凡て姓は尊卑の階級お定る者にせられ、氏は其人人の系統お糺し、皇神蕃〈皇別、神別、諸蕃、〉の三種お正しく定められし者は、たヾ其職業おむねとせさすべくて、氏上お置るヽ者也、其由は雄略朝廷元年八月、召集秦人漢人等諸蕃投化者、安置国郡、編貫戸籍、秦人戸数総七千五十三戸、以大蔵掾為秦伴造とあるは、秦人の戸数おかぞへ雲もの也、又十五年、秦氏分散、臣連等、各随欲駆使、勿委秦造、由是秦酒公以為憂、而仕天皇、天皇愛寵之、詔聚秦氏賜於酒公、仍領率百八十種勝部、奉献庸調絹縑、充積朝廷、因賜姓曰禹豆麻佐、〈○中略〉とあるものは、秦氏の人々は、糸綿絹お織成て貢進れるの職なり、〈故織具の総号お波多(はた)と雲は、秦氏より出てし号なるべし、〉如此氏々には其職業ありしこと、太古の法則なりしお知るべし、