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標註職原抄

中院右大臣は雅定公也、村上帝の皇子具平親王の子孫也、親王の子源師房以来、この流繁昌して華族の号お失はず、これに依て長者も、西宮記の如きは、弘仁御後に触たる人のみの定なれど、氏族の盛衰につきて、その例のまヽに行はれず、つひに崇徳帝の保延六年十二月に、此公始て両院別当になり玉へり、これ帝の叡慮より出たる事にあらずといへども、鳥羽上皇の寵臣たるに依て、上皇の勅定にて、永く所補たるよし、久我家の系譜に見ゆ、両院別当が即長者也、因にいふ中院家、後世久我と称す、