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羽倉考

菊の紋之事
当時は天皇院宮お初め奉りて、親王又は近き源氏に至るまで、菊お王家の紋と定めて、衣服は雲に及ばず、宮室器財の属まで、菊花の紋お用ひ給ふ、此事中古以前、曾所見なく、異朝にもいまだ其類お不聞、或説に、承平五年、菊花の宴ありてより、特に此花お賞せられて、朝家の花と為と雲り、然れども花の宴は菊に限れるには非ず、桜にも有れば藤にも有り、是たヾ花の好お賞せられたる計にて、南殿の桜橘、中殿の庭には梅萩の賞玩に異ならず、案ずるに、菊は仙洞の花なるべし、何にとなれば、赤色の御袍は、主上皇太子も著御し、一の上も著する事あれども、太上天皇ならでは、尋常には著御し給はざる事、桃花蘂葉、消遥院装束抄等に見えたり、此袍の文、窠の内に菊唐草八葉菊などなり、又指貫の文も、仙洞は八葉菊なる事、消遥院装束抄に見え、小直衣の文も、菊、菊唐草、菊の枝、衵も八葉菊なる由、無名装束抄に見えたり、総じて仙洞の菊の文お用ひ給ふ事は、十分の九つに過ぎ、自余の人の菊お用ふる事は、十分の一つにも足らず、蓋菊は爾雅にも、博公、延年と名づけ、費長房が炎お消し、酈県に寿お得たる類、人口にさへ伝へて、古来神仙の草花とす、太上皇おも亦仙洞碧洞の名お添へ、或は貌姑射の山に比して、同じく仙霊の号お仮れり、是位お去り世お遁れ給ふお、山に入塵お脱するの義に取れり、然れば仙洞の袍等の文に菊お用ひ給ふは、大に拠どころあり、是より転じて万物に、菊お以て仙洞の標とするにや、後鳥羽院、剣お好みて自鍛冶お為し給ふにも、菊花お刻み給へり、其後終に混じて、御在位のときも、猶菊お標としたまふと見えたり、
桐の紋之事
是は鳳凰より転じたると見えたり、凡麟鳳亀竜の四霊は各其類の長なれば、古来至尊に比し来れり、故に黄櫨染の御袍にも、鳳凰お織れり、鳳凰は梧桐に棲み、竹実お食ふが故に、桐竹おさへ加へたり、此御袍、必御在位の服御なれば、其綾お以て、後世御紋と為なるべし、